陸別百年新聞「にぎわい生む『人材』 『寒さ』逆手に全国区」
しばれフェスティバル 「自分が楽しむ」発端 産業誘致、移住後押しに
町観光協会・本田学会長に聞く
寒さを逆手に取ったイベント「しばれフェスティバル」は、陸別の名を全国区に押し上げた。過去に同フェスの実行委員長も務めた本田学さん(46)=町観光協会会長=に、陸別観光の魅力や今後の戦略について聞いた。
-陸別観光の最大の魅力は。
寒さが一番の資源であり宝物。その寒さをまちづくりに生かそうと始まったのが「しばれフェス」。「自分たちが楽しまなければ、来た人を楽しませることができない」というコンセプトで、町内で仲間を増やしていった。
そんな思いが次第に町民に広がり、「頑張ってくれ」「よくやっている」と支持され始めた。今では役場職員や学校教諭など40人余りが連日、ボランティアで会場準備に関わるようになった。
-「しばれフェス」はまちづくりにどう貢献したのか。
まずは認知度の向上。東京や札幌に観光PRに出向いても、「日本一寒い町」は知られている。「しばれフェス」を中心にメディアの露出度は管内町村でずば抜けている。それが日産のテストコースの誘致につながり、近年では移住の後押しになっている。
-陸別観光の課題、今後の戦略は。
2日間開催される「しばれフェス」は、交流人口の増大につながったが、今後は1年を通して滞在型観光をどう構築するかが課題。りくべつ鉄道や銀河の森天文台などを生かした受け皿が、まだ確立できていない。人口減少で今後もイベントを維持できるのかという危機感もあるが、十勝で一番人口が少ない町として、身の丈に合った観光を進めていきたい。
「しばれ君」の生みの親 佐久間幹夫さん(75)=町役場OB
厳冬の体験から発案
しばれる日が続く陸別の冬。「嫁さんの来手がないと言われた時代もあったと聞いていた」。観光まつりの企画会議で、商工会青年部が中心となり観光のあり方を検討。寒さを武器にする逆転の発想で1982年2月7日、第1回しばれフェスティバルが開かれた。
「それから、このイベントにシンボルマークが欲しいということになった」。公募50点の中から選ばれたのは、自身が発案した「しばれ君」。当時は役場民生課で40歳。第2回からマークができ、第3回からはポスターにも登場した。
しばれ君は防寒着に身を包み、ロシアのアムール川から流氷に乗ってやって来た少年をイメージ。手には氷点下35度を示す温度計を持っている。
「今より寒さが厳しかった石炭ストーブの時代、足や耳が冷たい中で登校したことから生まれた発想」と佐久間さん。「寒さの中で、遊んだり、泣いたり、笑ったりしたことを思い出し、粘り強く、思いやりのある大人に成長してほしい」と、子どもたちへの思いも込めている。
しばれ君は今や、町の代名詞ともいえるキャラクターに成長した。
ユニーク事業次々と
パッチ、ほらふき…セブンクラブ
陸別町で30年続き、今年を最後に終了した「日産カップ・オールジャパンパッチ選手権大会in陸別」。このユニークな大会を始めたのは、町内の異業種グループ「セブンクラブ」(山本和典会長)だ。
セブンクラブは1971年、陸別に帰郷した当時22~25歳の経営者2世の7人で結成。建設業やスーパー、石油業、町商工会職員らさまざまな職種の若者がメンバーで、酒を飲みながら「面白いことをやって町を盛り上げよう」と企画した。
第1回の「パッチ選手権」(1989年)の翌90年には、世界ほらふき大会を陸別に誘致するなどまちづくりに貢献、陸別の名を管内外に発信してきた。
山本会長(70)=理容やまもと=は「セブンクラブがなかったら今の自分はない」と強調。会員の石橋勉さん(69)=石橋建設社長=は「多くのイベントに関わってきたという自負はある」と振り返る。浜田始さん(68)=浜田旅館代表=は「陸別の知名度向上に多少なりとも貢献できたのでは」と話す。
メンバーの高齢化や後継者不足などを理由に、パッチ選手権はピリオドを打ったが、会は解散せずに活動を継続。「若い人には馬力を持って、いろいろなことに挑戦してほしい」(浜田さん)とエールを送っている。
日産テストコース 着工30年町と共に
町の誘致を受け1988年、日産自動車が町林内の試験場(テストコース)に着工してから、今年で30周年の節目を迎えた。
同社は「こがらしマラソン」「歩くスキーの集い」「テストコースオープンデー」といったイベントも行い、地域に貢献する企業として町民に親しまれている。
8月3日には、30周年と開町100年を記念し、同社車両実験部の有志ら延べ30人が5年かけて製作したフォーミュラバギーカー1台を町に寄贈した。
大田理試験場長、バギー製作を主導した同実験部の松尾浩昭主管ら7人が役場を訪れ、「試験場はわが社の誇り。このいい関係を次の100年にも」などと陸別への思いを語った。