ライターの南陀楼綾繁さん 故草森紳一さんの書庫取材 蔵書「故郷にある奇跡」
23年来勝「川に縁のあるところで生きてきたんだ」
音更町出身で評論家の草森紳一さんが2008年3月に亡くなってから、17年が経過した。遺族の意向で残された蔵書が帯広大谷短期大学に寄贈され、10年11月に音更町の支援のもと同短大に「草森紳一記念資料室」を開設。その他の約3万冊は旧東中音更小学校に保管され、「草森紳一蔵書プロジェクト」がボランティアで蔵書管理などの活動を続けている。生前に建てた書庫「任梟盧(にんきょうろ)」(町木野大通東5)は22年より一般公開が始まった。一連の蔵書や活動の取材記が、昨年12月発行の「書庫をあるく」(晧星社)に掲載されている。23年に初めて十勝を訪れ執筆した、ライターで編集者の南陀楼綾繁(なんだろうあやしげ、本名・河上進)さん(57)=東京都在住=は、草森さんと生前に交流があった一人。「没後に行き場を失った蔵書が、生まれ故郷に帰ってきたのはこの時代を考えると奇跡に近い」と称賛する。(ライター・高山かおり)
縁あり生前交流
草森さんは音更村(現音更町)生まれ。下音更小、下音更中、帯広柏葉高、慶応大を卒業後、婦人画報社(現ハースト婦人画報社)に入社し、編集者として活躍した。退職後は〈物書き〉を自称し、67冊の著作を残している。
南陀楼さんは、編集者として駆け出しだった1994年3月に初めて草森さんに会ったと振り返る。「当時勤めていた出版社に草森さんから電話がかかってきた。著作権が切れている本を集めて復刻する出版社で、確か明治・大正時代の日本人が海外へ行ったときの旅行記のシリーズを買いたいという電話だった。その場で草森さんの名前を知っていたのが僕だけだったこともあり、直接届けますと伝え、草森さんが行きつけの喫茶店でお会いした」
話した内容を記した当時のメモには、「麻雀、阿佐田哲也、フリーメイソン、オカルトと歴史、手塚治虫、漢詩の伝統、副島種臣」とあり、草森さんの興味と知識の幅広さがうかがえる。それから亡くなる最後の2年ほど前まで年に数度会っては、その時々の草森さんの興味関心があるテーマについての話を聞いていたという。
南陀楼さんが草森さんの名前を知ったのは、古本屋を巡るようになった大学時代だった。「古本屋で多数の著書を見つけていたが、デザイン、中国文化、麻雀などジャンルが全部バラバラ。この人は一体どんな人なのだろうと感じたのが最初だった」と話す。出版社勤務を経て独立し、2005年に東京都内の通称谷根千エリアの書店主らと「不忍ブックストリート」を結成、一箱古本市を開いたことをきっかけに、国内の新刊書店や古書店、図書館など本のある場所の取材を熱心に続けている。

<書庫をあるく アーカイブの隠れた魅力>
表紙に任梟盧の写真が使われ、28ページにわたり取材記を掲載。「日本の古本屋」でのメールマガジン「シリーズ書庫拝見」の書籍化で、15館が取り上げられている。道内では他に、釧路市中央図書館・釧路文学館も紹介。2530円。
23年6月に初めて来勝。草森さんの蔵書がある3カ所の他、帯広市図書館や音更町図書館などにも足を運んだ。「書庫をあるく」内でのサブタイトルにもある通り、「十勝大橋を越えて十勝川を渡ったときに、草森さんは川に縁があるところで生きてきたのだと改めて思った」と言う。
個人の蔵書を丸ごと引き受けられる可能性は、現在どんどん少なくなっていると南陀楼さんは指摘する。「一概には言えないが、昭和の頃まではある程度行政や場所に余裕があり、蔵書を引き受けるケースが多かったのでは。散逸してしまうことが多いこの時代に、いろんな縁で故郷に蔵書が収まっているのは奇跡に近い」と語る。
発信活動も継続
また、膨大な蔵書をただ保管するだけでなく、ボランティアグループが継続的に活動や発信していることにも触れ、「草森さんの名前を知らなかった人が、活動するうちに著作の面白さを知っていくなど、関わる人が草森ファンになっていく姿は感動的」と話す。十勝という土地に対して、「管内では全市町村ごとに文芸誌が出ていると地元の人に聞いた。他県でも町単位で文芸誌は発行されているが、全部が継続している地域は非常に珍しいと思う。文化に対しての理解がある土地なのだろうと感じた」と印象を語った。