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5日間歩き38度線越え 満州引き揚げの音更・戸高さん

戦後の疎開生活を語る戸高さん

 太平洋戦争の終戦を旧満州(中国東北部)で迎えた音更町の戸高淑子さん(94)は、1年1カ月に及ぶ朝鮮での疎開生活を経て、北海道に引き揚げた経験を持つ。戦後78年。戦争の語り部の一人として戸高さんは、「かつて日本が戦争に負けて、難民生活をするようになったことを皆さんに知ってもらいたい」と話す。(高井翔太)

 戸高さんは1928年に浦幌町で生まれ、4歳の時に釧路から両親と兄、妹の一家5人で旧満州に移住した。41年に高等女学校に入学。3年生になると授業は週1日になり、負傷兵の病衣の製作や担架を扱う訓練が増えていった。4年生に上がると授業はなくなり、軍歌を歌い、兵隊の食料作りをするようになった。

 45年8月9日にソ連の戦車が南下しているとの情報が入り、家族と会えぬまま突然疎開生活が始まった。16歳の時だった。汽車で今の北朝鮮・平壌を越え、8月15日の玉音放送で終戦を知った。暴動の危険から平壌近くの港町に移動。倉庫に難民約3000人が集まり、白米だけのおにぎりで空腹をしのいだ。秋ごろから倉庫を出て、朝鮮人の家で手伝いとして働いたが危ない目に遭いそうになったり、病院で仕事をしていた時には赤痢に感染してしまったりするなど、苦難があった。

 難民生活は1年1カ月続き、46年9月11日に「戦災避難民証明書」が発行された。1日約20キロを5日間歩き通し、「ソ連兵に見つからぬよう霧が出る日に北緯38度線を越えた。全員渡ったころに霧が晴れて安心した」と決死の突破を振り返った。

 今の韓国・仁川を経て長崎県佐世保港に到着。汽車に乗って釧路に着いたのは10月23日だった。駅のホームで両親と妹に再会を果たすことができた。

 現在は音更町で暮らし、地元の子どもたちに戦争経験を伝えることがある。11日には帯広市図書館で、市と核兵器廃絶平和都市宣言推進実行委員会が主催した語り部の会で講演した。

 戸高さんは生きて戻れたが、体が丈夫ではない兄は敗戦後、ソ連で亡くなった。「木の伐採をしていたが、港で倒れそのまま逝ってしまった」などと話し、時折声を詰まらせた。ロシアのウクライナ侵攻で多くの難民が生まれている現状を憂い、過去の自身の経験と重ねて平和の尊さを訴えた。

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