「死ぬまでスキーヤー」米寿の窪田さん 家族の死を乗り越えゲレンデへ
帯広市大空町の窪田久美子さん(87)は60歳でスキーを始め、米寿の今も衰えを知らない。「2月は22回も滑りに行った。上手になっているよ」。そう快活に笑う窪田さんだが、これまでの人生にはさまざまな苦難があった。(高井翔太)
文句言わぬ祖父
浦幌町で生まれ、父の仕事の都合で生後間もなく東京へ移った。第2次世界大戦で空襲に見舞われ、浦幌へ疎開。父は戦死した。
荒波の幼少期で印象に残った出来事が農地解放だった。祖父は日の出から日の入りまで畑を耕し、地元でも有数の広さを誇る農地を有していた。それでも土地を手放す際、一言も文句を言わなかったという。「素晴らしいおじいちゃんだなと思った。私もいろんなことがあったけど、一つも文句を言わなくなった」。祖父の心意気を胸に収めた。
割烹焼失も再建
浦幌中でテニスを始め、池田高では全国高校選手権で8強に入った。高校卒業後は北海道拓殖銀行を経て、帯広市内で「割烹(かっぽう)松竹」を経営していた重男さんと結婚。1971年には火災で店を失ったが、燃える店を前にどう再建するかを冷静に考えていた。「悲しいとかそういうのではない。それがおじいちゃんの姿で、身に付いていたんだと思う」。重男さんと共に店を立て直した。
還暦を迎えたら店ではなく自分の人生を送りたい-。やりたいことの一つにスキーがあり、経験者の社員に教わって滑り始めた。ちょうどその頃は、長男の成能さんが店を継ぐため東京から戻り、安心した時期でもあった。ところが、経営から引こうと思っていた矢先に不幸が訪れる。99年、成能さんが病に倒れ、窪田さんの腕の中で息を引き取った。「死んでしまったものはしょうがない」と、原因も聞かずに受け入れた。
その後、重男さんも病に冒された。夫のために全力を尽くすと決め、店の経営権など全てを社員に譲った。懸命な介護もむなしく、成能さんが亡くなった10年後に他界した。この時も夫の死を「すっと受け入れ」、前を向いた。
スキー「死ぬまで」
今はスキーに加え、コーラスや書道、詩吟の団体にも入り、充実した日々を送る。それを支えているのは日々の食生活と体作りだ。毎日3食、「鶏むねキムチ」や具だくさんのみそ汁を欠かさない。入浴時には浴槽で、スクワットとかかとの上げ下げの運動をそれぞれ100回。湯の中で行うのはけが予防のためだ。今年は壁打ちのテニスも始めたいと意気込む。
8日で88歳になる。「いつまでスキーをやるのと聞かれたら、『死ぬまで』と答えている」と笑う。幼い頃に見た祖父の姿を追い、大難にも前向きな姿勢を貫いた先で、ご褒美の時間を楽しんでいる。
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窪田さんが所属するユニティースキークラブでは会員を募集中。問い合わせは戸出覚会長(090・3775・0606)へ。