晩成社「マルセイバタ」明治の文豪も食す? 大和田学芸調査員
十勝開拓の先駆者依田勉三が率いた晩成社が大樹町生花晩成地区で製造、「マルセイバタ」の名称で売られたバターが明治期の有名喫茶店「青木堂」(現東京都文京区本郷、すでに閉店)に販売されていたことが帯広百年記念館の大和田努学芸調査員の調べで分かった。同店で作られた菓子は森鴎外が買い求め、平塚らいてうも取り寄せていたとされ、大和田さんは「明治の文豪たちが食べていた菓子の中に、マルセイバタを使った物も含まれていたかもしれない」と話している。
「マルセイバタ」のラベルを復刻し「マルセイバターサンド」などを製造する六花亭製菓(帯広市、小田豊社長)から2012年に「マルセイバタ」の容器の形状についてを問い合わせがあり、大和田さんは調査を開始した。
東洋水産創業者で勉三と同じ静岡県賀茂郡出身の森和夫氏(故人)から1995~96年、同館に寄贈された史料96点を基に調べた。史料は勉三が弟の善吾に宛てた手紙が大部分を占め、バターや牛肉の取り引きについての内容が書かれている。当時バターを卸していた商店の広告や領収書なども含まれており、解明につながった。
バターの輸送経路は勉三が内国通運(現日本通運)取引店の上田運送部(豊頃)に依頼。豊頃駅から鉄道で函館、さらに青函航路を経由して東京・秋葉原駅に輸送されたと推測される。その後、善吾宅(現東京都台東区上野)に届けられ、廣屋商店(同)や青木堂など上野駅近隣の店舗に商品を卸していたと見られる。晩成社のバター製造は1906年~18年に行われており、大和田さんは「勉三は帯広-落合間の鉄道が開通した07(明治40)年を商機と捉えバター作りを開始したのだろう。販売には東京在住の善吾が大きな役割を果たしており、兄弟が連携してバターを売っていたことも史料からみてとれる」という。
販売先の一つだった青木堂は、1階が食品雑貨、2階部分は喫茶店の西洋風な店で、晩成社が1910年に「マルセイバタ」を一度に10たる(90キロ分)を納入したという史料も残っている大口取引先だった。多くの著名人が利用し、森鴎外の娘・茉莉の著作「貧乏サヴァラン」では幼少期に食べたことが触れられている他、平塚らいてうの「元始、女性は太陽であった」の中では本人が青木堂から購入していた記述がある。夏目漱石の作品「三四郎」の中には主人公の三四郎が何度か青木堂を利用する内容がある。大和田さんは「明治期に勉三の作ったバターで十勝と東京がつながっていたということは驚きだった。有名な作家も口にしていたかもしれないと思うと想像が膨らむ」と話す。
これまで大和田さんは残存するラベルと史料を基に当時製造された「マルセイバタ」1ポンド(約0・45キロ)缶の再現なども行っており、「晩成社はいろいろな事業に挑戦している。他の事業についても調べていきたい」と意欲を示している。 (塩原真)