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陸別百年新聞「弱きを助ける正義漢 医師から農業者へ転身 陸別開拓の父・関寛斎」

小室吏作「関寛翁の像」から

72歳で斗満入植
 1902(明治35)年8月、先に入植していた四男又一の元へ、関寛斎は原野が広がる陸別・斗満の地に立った。木を切り倒した後は、重いくわを手に数人がかりで抜根し、馬や牛のふんを入れ畑にしていく。72歳、信念の開拓だった。

 「斗満(とまむ)の河」(新人物往来社発行)の著者乾浩さんは寛斎について「アイヌの人々への思いやり、弱き人を助ける正義の人だった」と形容する。

 寛斎は、現在の千葉県東金市で農家の長男として生まれた。養父で儒学者関俊輔の勧めもあり、蘭医学の佐倉順天堂に入った。26歳の時、銚子で開業。ヤマサ醤油7代目当主濱口梧陵と出会い、支援を受けて長崎に1年間、最新の西洋医学を学んだこともある。

 33歳、徳島藩蜂須賀家の侍医となり、戊辰戦争では新政府軍の奥羽出張病院頭取として敵味方なく戦傷者の治療に当たった。頭取の報償金は同行の医員に分け、明治維新に伴う版籍奉還では禄籍を放棄し、市井の医師を貫いた。貧しい患者からは金を取らず「関大明神」とあがめられた。

社会のために
 又一が札幌農学校(現北海道大学)に入学し、北海道開拓を志して設立した石狩町の樽川農場を見学した際、66歳の自らも開拓に身を投じる決意をする。四十数年にわたる医師人生から農業者へ、なぜ彼の地を目指したのか。

 陸別関寛翁顕彰会(河本哲士会長)の斎藤省三事務局長は「徳島で築いた財産を社会のために使おうと決めていた」と分析する。乾さんは「貧しさゆえの死を多く見てきた寛斎は、栄養のある農産物を北海道で生産することに意義を見つけた」と推測した。

 徳島から斗満へ、冬は氷点下30度にもなる厳寒。又一が考えた12年に及ぶ開拓計画は実践に移された。雪解けから開墾を始め、カシワなどの抜根作業は数人の人手と馬とで数時間かかる。開拓の傍ら、住居としていた私設駅逓内に診察室を設け、作業者やアイヌへの無償の治療にも当たった。

 又一が従軍する際などは農場管理人の片山八重蔵らと共に斗満牧場を守った。ただ、過酷な自然との闘いは思うように結果は出ない。1年目は1ヘクタール余り、やっとできたソバやジャガイモといった作物もネズミや野ウサギの被害に遭った。2年目は牛10頭、馬95頭、畑4ヘクタール、牧草地20ヘクタールを開墾。3年目は大雪で馬40頭を失い、買い足して67頭としたものの56頭が疫病で死んだ。

農場経営に悩み
 常に前を向いてきた寛斎だったが、農場経営をめぐる悩みも抱えていた。小作人に未開農地を分け与えて自立させ、生きがいを持たせる。豊頃に入植していた二宮尊親から学んだ相互扶助にも共鳴した。対して又一は、小作制度によらない西洋式の賃金支払いによる雇用形態を目指した。

 22歳から連れ添った妻あいの死(享年69)、年齢による心身の衰え、斗満開拓に投じた財産で長男の子から相続訴訟も起こされた。「忍びても なを忍には 祈りつつ 誠をこめて 更に忍ばん」(八十三老白里)

 斎藤事務局長は「悲しい短歌も目立つようになっていた」と晩年の寛斎の変化を読み取る。

 1912年10月15日、モルヒネをあおり、寛斎は自ら命を絶つ。入植から10年、斗満地区に約500ヘクタール、愛冠地区の約300ヘクタールを拓いた82歳のことだった。

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