村上右磨、数々の試練乗り越えつかんだ五輪「後悔は全然ない」ミラノへの道も 北京五輪スピードスケート
【中国・北京=北雅貴】29歳でつかんだ初めての五輪は格別なものだった。「ほかの国際大会よりも気持ちも入り、すごく楽しい舞台だった。満足のいく準備をして、自分に期待してスタートラインに立てた。後悔は全然ない」。12日に北京・国家スピードスケート館で行われた男子500メートルで8位入賞の村上右磨(高堂建設)は穏やかな表情で振り返った。
これまでの自身のスケート人生を表すかのように、この日のレースでもさまざまな出来事が起きた。レース自体の開始の遅れに加え、自身のスタート直前の組の選手が最終カーブの後半部分の氷をブレード(刃)で引っかけたため、補修作業で待たされた。
もともとスタートからのダッシュと加速が持ち味。300メートルまでは世界トップクラスの力を持つ。待つ間も集中力は途切れなかったが、スターターとのタイミングのずれも起きた。「構えてから(ピストルが)鳴るまで長くて、フライングになるかなと思った時に鳴った。出だしのタイミングが少し遅れたかな」と苦笑いを浮かべた。「1歩目自体は悪くはなかった」が、微妙なずれで爆発的なスピードには至らず、100メートルは9秒54。第1カーブでもいつものような加速にはつながらなかった。「タイムと順位は納得はしていないが、全力は出せた。メダルに届かなかったのは自分の実力が少し足りなかったから」と潔かった。
異色のキャリアを持つ500メートルのスペシャリスト。3歳から始めたスケートを何度もやめようと思った。成績が出なくなった中学生。就職を考えた高校時代と大学中退。21歳で帯広に戻り、父の忠則さん(62)の経営する電気保安関連の仕事の手伝いをしながら、「しっかりと1年間全力でスケートに取り組み、駄目ならやめよう」と決意して臨んだ。複数の図書館を回り、スポーツや食、健康などについての本を読みあさり、4年間の計画を練り、1年ごとの「やることリスト」を作った。
シニアの国内トップ級が集まる全日本距離別選手権で1桁の順位になり、ワールドカップ(W杯)にも出場。2016年にナショナルチーム(NT)入りも果たし、平昌五輪候補に名乗り出るまでに成長した。
ただ平昌五輪シーズンの17年7月に股関節のけがで、NTを一時離脱する期間も。思うように練習を積めず代表選考会でも7位に沈んだ。当時25歳。再び岐路に立たされ悩んだ。「練習ができずに不完全燃焼だった。もう1年頑張ってみよう」。翌年5月の宮崎での合宿では「自分の可能性や伸びしろもあると思って、またNTに入って厳しい練習をしようと思った」と話していた。
それから4年。W杯優勝や、国内最高記録を樹立するなど日本を代表するスプリンターの立場となった。昨夏に腰を痛め、11月のW杯開幕前のドイツ合宿では転倒した影響で背中と左腕を計7針縫うけがも。「また前回のように自分の力を出し切れないまま終わるのかな」と弱気になりかけたこともあった。それでも天性の体幹の強さと、並外れた体のコントロール能力を生かし、北京へ切符をもぎ取った。
幼少期から練習を支えた父の縁で、1998年長野など五輪3大会出場の島崎京子さん(白樺学園高出)に、帯工高3年生時に指導を受けた。最後のインターハイで3位に。節目でスケートを続ける方向に導かれてきた。26年にイタリアで行われるミラノ・コルティナ五輪シーズンには33歳となる。「4年後は先過ぎて分からないが、1年1年自分に挑戦し、成長していければ。頑張っていきたい」と前を向いた。