魅力・上「青春ふわり熱気球部」 まちマイ上士幌編
上士幌高校(渋川誠人校長、生徒193人)の特色ある部活動で真っ先に思い浮かぶのが、熱気球部だ。全国の高校で同校と佐賀県北陵高の2校しかない。部員たちは限られた時間の中で活動に専念しているが、活動日以外になるとそれぞれ様子は一変。上空から景色を楽しむダイミックな姿とは別のもう一つの“顔”を持っている。
同部は1994年に創部。現在は唯一の3年生である久保響己部長を筆頭に、2年生8人、1年生1人の計10人で構成する。春先は係留フライト、夏から冬にかけては主にフリーフライトといった年間サイクルで活動に励み、地元で夏と冬の年間2回行われる大会の常連校でもある。
とは言え、熱気球は気象条件に左右されるため、活動時間は1日のうちで風の穏やかな早朝が多く、フライト日は決まって土・日曜日。活動自体が限られており、入部を希望する際は他の部活動との掛け持ちが条件だ。そのため、各自が放課後になると、新聞局、テニス部、卓球部、バレーボール部、バドミントン部と異なる部活動に分かれて練習に打ち込む。また、副顧問の古起快教諭はバスケットボール部、同じく副顧問の大河原亜美教諭は家庭部の指導を兼務するように部員に限った話ではない。
その一方で、熱気球部を“本業”に選んだ部員の姿も。帯広から通う2年の廣富龍生君は「熱気球部があるからこの学校を選択した」といい、「吹奏楽部に所属していたが、コンクールが近付くと熱気球部に顔を出せない日が続いたりと両立が難しかった」と現在は熱気球部に絞って活動する。在学中に熱気球のパイロット資格取得を目指す考えもあり、フライト訓練や学科試験に向けたトレーニングに励んでいるという。
顧問の上村剛教諭は「みな平日の疲れやストレスを感じさせず、生き生きとした表情で熱気球の活動に取り組んでいる。チームワークはもちろん、フライトにかける情熱を感じます」。部員たちはこの先も心一つに上士幌の大空へ飛び立つ-。(小縣大輝)
メッカ生んだ学生の思い バルーンクラブ・那須襄太郎会長(78)
なぜ上士幌で熱気球?-。その疑問を解決すべく、日本の熱気球をもけん引している「上士幌バルーンクラブ」の那須襄太郎会長(78)=上士幌=が話してくれた。(石田宇郎)
ここで熱気球が最初に上がったのは1974年7月の熱気球大会。きっかけは前年5月、当時、町議の1期目だった私のもとに、以前、酪農実習でうちに来たことのある京都の学生が来町した。その学生は、友人から熱気球が国内では飛ばす場所がない、広い北海道の大地にバルーンのフライト基地ができないかと相談してきた。「地域振興につながる」と考え、熱気球大会の実現へと動きだした。
大きな機体や、バーナーの音が牛や馬などへ及ぼす懸念など課題もあったが、何とか理解を取り付け、4機の熱気球が空へ上がった。この後、航空公園で毎年大会が開催されるようになり、定着していった。十勝平野という環境に恵まれていることも大きいが、79年には当クラブが設立、地元でも愛好者が増え、下支えしていることも大きい。
伝説フライトあまた 山下暁彦さん(68)
日高山脈の横断や、友人を気球のてっぺんに命綱無しで乗せての飛行-。数多くの武勇伝を持ち、熱気球愛好者たちの間でも知られた存在なのが、山下暁彦さん(68)=上士幌東3線。「30、40代のころは毎日のように飛んでいたが、全然疲れなかったね。石狩湾、摩周湖も横断したよ」とさらりと語る。
熱気球に関わって43年。「インストラクター」より上の指導資格「イグザミナー」(日本連盟公認)を持つ。現在も十勝で唯一、道内でも2人しかいない。昨年8月に長男に譲るまでは、町内の焼き鳥「鳥よし」(現居酒屋)を切り盛りしながら空を飛んでいた。
2年前、中標津の暴風雪で死亡者が出た現場近くで、熱気球仲間とともに乗っていた車が立ち往生し、12時間以上後に救出された経験を持つ。
「パニックにならなかったのは自然相手の熱気球の活動のたまもの。平常心でいられた」とする。
現在はボランティア飛行を中心に年間10時間ほどのフライト。ピーク時の10分の1に減ったが、「体に染みついていて、乗ったら感覚がすぐに戻る」と笑顔を見せる。
(佐藤いづみ)
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