そこに物語あり(68)陸別・司馬遼太郎記念碑
語り継がれる関寛斎とのつながり
「陸別はすばらしい都邑(まち)と田園です。寛斎の志の存するところ、ひとびとが不退の心で拓(ひら)いたところ、一本一草に、聖書的な伝説の滲(にじ)みついたところです。森に、川に、畑に、それらのすべてが息づいています」
陸別開拓の祖・関寛斎(せき・かんさい)の命日に当たる15日、没後100年の記念碑が地元顕彰会などの手によって道の駅オーロラタウン93りくべつ前の広場に建立された。碑には作家司馬遼太郎さんによる冒頭の文章と肖像を刻んだ。1991年に発刊した陸別町史史料編の序文に司馬さんが寄せた文章だ。
2時間の濃い滞在
千葉県に生まれ、オランダ医学を学ん寛斎は、徳島で藩医や町医者を務めた後、72歳で息子らと陸別に開拓のくわを入れた。
司馬さんは76年11月~79年1月に朝日新聞で連載した長編小説「胡蝶の夢」で、主人公の1人として寛斎を取り上げた。幕府の侍医で初代軍医総監の松本良順を中心に日本医学の黎明(れいめい)期を描いた作品で、寛斎は「最後の蘭方医」として登場し、小説の後半にかけて大きな存在感を示す。
連載中の78年9月、司馬さんは取材で陸別を訪れた。わずか2時間の滞在だったが、資料館や寛斎の農場跡地を回り、住民から話を聞いた。特に遺品の頭蓋骨の標本には鋭い目を向けたという。陸別関寛翁顕彰会副会長で、当時は町の広報担当だった佐久間幹夫さん(69)は「下調べしてきたものを現地で確かめるように、陸別の山や川のことも詳しく聞いていた」と思い出す。足かけ4年の長期連載は陸別の記述で幕を閉じた。陸別や寛斎は紀行シリーズ「街道をゆく」でも紹介されている。
生き方「神に近い」
戊辰戦争で官軍の軍医長として活躍した寛斎には、軍医総監となり医師のトップに上り詰める道があったが、徳島に戻って町医者になった。戦地では敵味方なく治療し、徳島や陸別では貧しい人に無料診療を行った。
司馬さんは胡蝶の夢で寛斎の生き方を「他の同学の西洋医学の徒が時流に乗って栄燿(えいよう)の裘(かわごろも)を一枚ずつ着かさねて行ったのに対し、寛斎は逆にみずからぬぎすてて行ったように思える」と書いた。「かれ自身の性格、思想、生き方は神に近いほど単純であった」とも記している。
栄達の道を選ばず、安定した生活を捨てて高齢で原野を開墾した寛斎。その生き方は司馬さんを陸別に足を運ばせ、筆を執らせた。作品に描かれた人間像で寛斎は世に広く知られることになった。同顕彰会事務局幹事の斎藤省三さん(79)は「寛斎と司馬さんのつながりは、記念碑によってさらに語り継がれる」と願っている。(安田義教)