安田巌城の足跡語る 孫の弘さんが初講演へ
十勝最初の歴史書で管内各市町村史の基にもなっている「十勝史」を記し、歌人としても活躍した安田巌城(やすだ・がんじょう、1863~1928年)について、巌城の孫の安田弘さん(81)=帯広市在住=が24日、とかちプラザで開かれるセミナーの中で講演する。巌城は同じ年代に活躍した依田勉三らと比較して謎の部分が多く、弘さんは自宅に残る資料を当たるなど研究を続けてきた。弘さんは「巌城について対外的に語るのは最初で最後になると思う」と話し、巌城の功績に光が当たることを望んでいる。
巌城は福岡県生まれ。兄は新聞「日本」を創刊し、「九州日報」(現・西日本新聞の前身の一つ)で社長兼主筆、衆院議員も務めた福本日南。
巌城は福岡藩の役人として北海道に赴任した父や、北海道開拓を志した日南の意志を継ぎ、篠路村(現・札幌市)に移住。道庁の視学官として十勝地方の視察などを行った。台湾勤務などを経て、1904年に河西支庁第二課拓殖係として帯広に赴任。アイヌへの教育の必要性を訴え、第二伏古尋常小学校の設立に奔走するなどした。自身もアイヌ語や文化を研究。当時の河西支庁長から委嘱され、数年かけて執筆した「十勝史」はその後、各市町村史として利用された。
「巌城は自分の功績をひけらかすことや、お金の話を極端に嫌った」(弘さん)といい、十勝史には著者の名前が登場しない。こうした巌城の考えを尊重する意味もあり、家族も自宅に残る巌城の資料を、郷土史研究の第一人者だった木呂子敏彦さん(2005年死去)ら一部を除いて公開していなかった。
このため、弘さんは巌城の功績が埋もれることなく後世に残していけるようにと自身で研究を続けた。弘さんの最近の調査では、長年不明となっていた十勝史の序詞を書いた人物が、明治天皇の側近で、帯広-釧路間の鉄道開通を受け、視察のため帯広に滞在していた藤波言忠であったことが分かるなど、新たな発見もある。
24日のセミナーは大津・十勝川学会の研究セミナーとして開かれ、講演で弘さんは研究の成果や巌城の足跡について語る。午後2時から。参加費は一般500円、会員は無料。問い合わせは同学会事務局(015・579・5801、豊頃町教育委員会内)へ。(大谷健人)
1863年福岡県生まれ。本名は安田直(なおし)。父の実家である安田家の養子となり、家督を継ぐ。早稲田学校(現・早稲田大学)で学び、同校で指導者となった後、北海道へ移住。帯広赴任後は「十勝史」や「十勝地名解」を執筆。依田勉三や晩成社、二宮尊親らとの交友もあり、開拓期の先駆者12人による七言絶句の寄せ書きにも名を連ねている。