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戦端の地「択捉島」の記憶 きょう真珠湾攻撃

中学生を前に択捉島での思い出を語る安田さん

 73年前のきょう12月8日、日本は米国の真珠湾を攻撃し、4年間に及ぶ泥沼の太平洋戦争に突入した。出撃の地となった択捉島の元島民は当時とその後を振り返り、戦争にもてあそばれた年月の長さを痛感する。

 芽室上美生中で11月25日に行われた「北方領土学習」。元島民で帯広市に住む安田愛子さん(75)は1年生6人に語り掛けた。「村は自然が豊かで、平和だった。島を古里と決めた人たちは、明るい希望を持って生活していた」

 同島蘂取(しべとろ)村出身の安田さんの記憶にある島での暮らしは、つつましくも穏やかなものだった。秋になるとサケ漁の出稼ぎ労働者で活気づき、漁が終わればまた元の静けさに。小学校の運動会や村祭りが一番の娯楽で、大人も子供も一緒に楽しんだ。

 同島紗那(しゃな)村出身の帯広市在住、武田政子さん(81)は「生活は質素だが、食べるのには困らなかった」と振り返る。山に行けば山菜やコケモモなどがあり、畑では必要十分な野菜が取れた。秋には翌春までの米を買い付け、どこの家にも米俵が積んであった。「親は苦労していたかもしれないが、私自身は北海道に引き揚げるまでひもじい思いをした記憶がない」

 一方、静かな島の暮らしの中にも戦争は暗い影を落としていた。蘂取村出身の帯広市の和田政能さん(90)は高等小学校を卒業し、島内で営林署や逓信省などの仕事を手伝っていた1941年9月、家人から室蘭に行くよう命じられた。向かった先は日本製鋼所。徴用工として、大砲の砲身などを作る仕事が待っていた。

 同年11月、同島中部の単冠(ひとかっぷ)湾に空母6隻を含む連合艦隊の艦船30隻余りが集結した。この時、島内では通信が一切封鎖されたため、その艦隊が真珠湾に向かったことを終戦後に知った島民は少なくない。一方、戦果の知らせは直ちに届けられた。武田さんは、シンガポール陥落(42年2月)の祝いに、教師が子供たちにゴムまりを配ったことを鮮明に記憶している。

 ただ、間もなく訪れる戦況の悪化は隠しようもなかった。和田さんは「終戦の前年に休暇で島に帰ったら、村の近くの監視所に勤めているのが女子に代わっていた。室蘭でも作るものがなくなっていたし、もう戦争も長く続かないなと感じた」。

 そして終戦。豊かな島の暮らしが戻ってくるはずだったが、70年がたとうとする今もそれは実現していない。武田さんは言う。「引き揚げてからは生活がやっとで、島のことを思い出す暇もなかった。最近はようやく懐かしく思う余裕ができたが、今さら島が返ってきてもこの年では住めない。時間がかかり過ぎた」

 和田さんは「日本が軍隊を持っていれば、もう少しロシアにものが言えたのかな。でも、戦争なんてしたくないし、してほしくもない。年も年だし、もう諦めの気持ちしかない」とこぼす。今年の夏、最後の墓参のつもりで島を訪れ、そこに眠る4人のきょうだいや親類に別れを告げた。

 1万7000人余りいた元島民も現在は7000人を切り、高齢化も進む。安田さんは管内ただ一人の語り部として、経験を語り継ぐ。安田さんは授業の最後に子供たちに訴えた。「美しく、資源豊かな宝の島北方領土は、島民だけのものではなく、日本国民全員の財産。一日も早くロシアと安定した友好関係が築けるよう、正しい知識と認識を持って勉強して」(丹羽恭太)

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