「被爆2世の務め」 母の体験語り継ぐ 帯広の土谷さん
帯広市の土谷節子さん(65)は、広島で被爆し2015年に88歳で死去した母佐藤弘惠さんの被爆体験を語り継いでいる。昨年設立した被爆者の子どもたちでつくる「被爆二世プラスの会北海道」に参加して活動を本格化させ、今年7月には初めて帯広で講演した。戦後73年が経過し被爆体験者が少なくなる中、「原爆の悲惨さを伝えていくのが2世の務め」との思いで核兵器廃絶に向けて活動する。
弘惠さんは原子爆弾が広島に投下された1945年8月6日、爆心地からわずか1・6キロの勤務先のビルで被爆した。閃光(せんこう)と爆風に襲われたが、机の下にもぐり、奇跡的に助かった。このビルでは60人以上が犠牲になり、砕け散ったガラスで内臓が飛び出た遺体もあった。
「水をくれ」と川になだれ込み、折り重なるように死んでいく人々。丸一日かけて自宅にたどり着いた弘惠さんの体は血だらけで、皮膚ははがれ、30個以上のガラス片が刺さっていた。だが、逃げることに必死で気付くことはなかった。「この世のものとは思えない、地獄絵図だった」。弘惠さんは何度も土谷さんに聞かせた。
原爆はその後も、暗い影を落とし続けた。放射能に汚染されたことは知らされず、被爆1週間後に井戸水を飲んだ弘惠さんの妹2人が原爆症で命を落とした。
土谷さんを含め3人の子どもを産み、計9人の孫に恵まれたが、子どもや孫が誕生するたび、被爆の影響が健康面に表れないか危惧した。健康面の不安から土谷さんの弟を産むかどうか悩み、兄が難病を発症すると、自分のせいではと医師に詰め寄った。「拭いきれない、重い十字架を背負っていた」と土谷さんは振り返る。
語り部高齢化 全国的課題に
戦後70年以上が経過し、戦争体験をどう語り継ぐかは全国的な課題だ。十勝地区原爆被害者団体協議会は、会員の高齢化で2013年に解散。同会で語り部として積極的に活動した元高校教師の中村悦雄さんが14年に死去し、十勝で被爆体験を語り継ぐ人はいなくなった。
土谷さんは母の死を契機に、語り継ぐ重要性を再認識した。16年8月6日には、広島市の平和記念式典に遺族代表として初めて参列。全国の遺族と交流すると、親から被爆体験を聞いていない人が多いことが分かった。差別や偏見を恐れてか、被爆を隠して死んでいく人がいることも知った。
幼少期から母の体験を聞いてきた土谷さんは、命をつないでくれたことに改めて感謝し、「核兵器をなくすには、被爆2世が悲惨さを伝え、賛同者を広げていくしかない」と強く感じた。
弘惠さんが亡くなったのは、広島が深い悲しみと祈りに包まれる前日の8月5日だった。「何かの思いがあって、その日になった気がする」。土谷さんは母の思いを胸に、これからも講演活動を続ける。(池谷智仁)