年間キャンペーン 第2部 まちの力 発展の芽・十勝で発掘 3 大樹<上>宇宙
「大樹から大気圏外へ。大樹から宇宙旅行だ。町の子どもから航空宇宙の技術者が出てほしいね」。ロケット模型などが並ぶ大樹町の町長室。伏見悦夫町長=写真=は将来の町の姿に思いをはせる。
「宇宙基地」誘致でまちづくり−。夢のような話をと、かつては一笑に付されたこともあったが、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の科学観測気球実験場の町多目的公園への移設が決まり、将来的には米・ロケットプレーン社による「宇宙旅行」発着地の候補になるなど、夢はしだいに現実味を帯びている。
関係者の来町で、地域への経済波及効果も出る“宇宙”のまちづくり。挫折を乗り越えての着実な歩みは、恵まれた「地の利」と、行政、町民が地道に築いた「人脈」に支えられてきた。
海開ける広大な地恵まれた「地の利」「立地の優位性に恵まれていたことはハード面の大きなプラス」。町総務企画課で航空宇宙を担当して8年目の黒川豊さん(46)は語る。
東側に海が開け、気候の安定した美成地区の広大な平たん地は、航空宇宙関係者を「国内にこんな好条件地があったのか」と驚かせた。1986年ごろ、若き職員だった黒川さんは、来客のたびに「何もない林だった」美成を案内した。
当時、旧北海道東北開発公庫が宇宙基地候補と着目した同地区だが、伏見町長は「実は旧NASDA(宇宙開発事業団)が種子島に基地を造った際(69年)も大樹を調べていたらしい」と明かす。国内有数の好適地に、地元の熱意が加わった十数年後、航空宇宙基地誘致の歩みが始まった。
東大教授来町が誘致の第一歩85年6月12日、東京大宇宙科学研究所の教授が来町したのが、町の誘致の歴史に残る第一歩。当時、期待されたのが、“種子島後”のロケット発射場誘致だった。
「ロケットなんて外国で打ち上げるものと思っていた。でも話を聞くと面白い。これは良いと勉強した」と当時開発振興課長だった伏見町長。故・野口武雄町長を先頭に取り組み、86年6月には種子島宇宙センターも視察した。しかし88年7月、来町した事業団幹部から聞いたのは、「打ち上げは種子島で継続」だった。
着実な歩みで誕生研究者間に応援団この窮地を救ったのが「人脈」だ。約3年間の誘致活動で、研究者間には大樹の“応援団”が生まれていた。
肩を落とす町関係者に、事業団研究者から「日本版スペースシャトル計画で自動着陸制御システムの実験地を求めている」との情報が寄せられた。
海に向かって延びる1キロの滑走路。実験誘致に向け、町が建設に着手した町多目的航空公園(美成)だ。しかし、約2億3000万円をかけた公園の完成前年の94年、再び挫折が訪れる。「9割9分大樹で実施」とみられた実験地が、オーストラリアに決まったのだ。
失意の底に沈む町関係者。だがこの時に滑走路を造っていたことが、その後の数々の実験誘致へのターニングポイントとなった。
(小林祐己)