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 幕別町出身のジャーナリスト、和多田進さん(神奈川県)が6月22日、肝細胞がんのため死去した(享年70歳)。1945年幕別町札内生まれ。帯広柏葉高校、法政大卒。雑誌、出版社の編集・経営者として活躍し、近年は反権力、人権派のジャーナリストとして行動していた。十勝毎日新聞の編集委員も務め、6月まで13年間、勝毎紙上で毎週、エッセー「東京日記」を連載。地域の話題を掘り起こす「まちマイ」や、外部識者による時評「耕土興論」の企画・立案に携わった。
 和多田さんを偲び、本紙に掲載した記事をまとめた。

故・和多田進氏を偲ぶ 十勝毎日新聞社会長・主筆 林光繁

ありし日の和多田進さん(右)と筆者=2013年1月、十勝毎日新聞社社長室で

「東京音頭で送ってくれ」

 「生は死に直結する一本道である」-。1984年、39歳の時に心臓のバイパス手術をして以来、「常に死を覚悟しているつもり」。葬式もしない。通知もしない。自己韜晦(とうかい=才能、地位等を包み隠すこと)はひとつの美学でもある。死んだら「東京音頭」、「ハァー、踊り踊るなら、チョイト東京音頭-」というあの曲を家族で聴いてほしい。
 2003年4月7日から本紙に掲載してきた「東京日記」(この6月11日で609回も続いた)の中に書かれていた一文である。
 幕別町出身のジャーナリスト、和多田進さん(70)が6月22日午後8時50分、肝細胞がんのため、亡くなった。

 “わたさん”とは22年前、1994年5月に本社社長室で初めて会った。
 「週刊金曜日の元編集長」というのが紹介者の触れ込みだったが、本人は「幕別出身のジャーナリスト」と自己紹介した。
 実は、この年は振り返ると私の人生でエポックを画する年だった。次男・克彦の大学入学、長女・真穂の結婚、FMおびひろの開局、千年の森の開発着手、北海道ホテルの命名、社業で中心となる人物と思っていた社員に辞められ、困ってもいた。そんな折、“わたさん”が私のそばに来てくれた。7月から勝毎の編集委員として採用した。
 雑誌発行のプロ。文筆力もあり“書ける男”。文芸、芝居、写真の人脈は井上ひさし、森村誠一、荒木経惟をはじめ多数。会うたびにその人脈の分野の広さ、深さには驚かされた。
 筑紫哲也ら新聞界にも通じていた。左派的視点で帝銀事件を冤罪(えんざい)の角度から分析、「追跡・帝銀事件」の本も執筆、戦後の混乱期の事件、事故の取材も現場に足を運び丁寧に取材をしていた。
 意外だったのは、政界にも人脈を持ち、政情分析にたけていた。新聞人の私には願っても得難い人材だった。以来22年間、上京するたびにお茶や食事をしながら、情報を交換した。
 勝毎には東京日記のほか、郷土の画家・能勢眞美の生涯を能勢の日記から浮き彫りにした「孤影蕭然」、インタビューで13人の十勝の文化人をクローズアップ「アーチスト図鑑」としてわかりやすく位置付けして執筆した。町や村の中心だった駅に寄り添いながら生きてきた人たちを中心に、十勝の歩みをたどった「駅」では、勝毎の若手記者を巻き込み、その指導もした。耕土興論は“わたさん”のアイデアと人選でスタートした。論説のない本紙を補完する格の高いコラムの登場となった。
 神田日勝を発掘したのは“わたさん”である。「東京日記」の500回に「帯広在住の米山将治さんに“室内風景”の写真を見せてもらい、強い衝撃を受けた。美術評論家の宗左近さんに紹介、日勝を美術雑誌に取り上げてもらった。あえて言うが、神田日勝の今はそのときはじまったのではなかったか」。目利きだった。
 十勝の高校のブラスバンドは、全国優勝するほどの実力を現在、持っている。これは、“わたさん”が、ジャズサックス奏者、田野城寿男をつれてきたことがキッカケ。田野城は演奏会だけにとどまらず、高校のブラバンの指導も買って出た。それが南商、三条、池田高校の活躍につながった。
 “わたさん”はかっこいい“アーバン・ボーイ”でもあった。車が好きで、東京都内で知らない道はないといってよかった。シックなスカーフをいつも首に巻き、服装は和服地等を使った1点ものが多かった。時々和装で現れた。巾着を持ち、NHKの朝ドラ「あさが来た」の玉木宏扮する若主人のようでもあった。グレーの髪とマッチし、優しく品がよい。ジョークで周りを温かいムードに変えた。
 美食家だった。当然、舌も確かだった。「親父が幕別で料理屋をやっていたせいかな」。3、5月に車椅子で、京都の「御料理 はやし」、福岡の「吉富寿し」を訪ね、最後の晩餐(ばんさん)を楽しんだようだ。
 「私の食い物巡礼はそのまま私の人生である。記者諸君、一生ジャーナリストと言える人間でいたいなら、食べることに投資してほしい」(東京日記600回)。
 “わたさん”のわれわれへの遺言だ。(文中敬称略)

さようなら、和多田さん 歌人 時田則雄

時田則雄氏

 和多田さんが亡くなられて、はや4日。シナノキの暗緑の葉が透明なしずくを垂らしている。和多田さんが体調を崩されていたことは、本紙の「東京日記」を読み、案じていたのであった。
 私が初めて和多田さんにお会いしたのは4年前。北海道ホテルで開かれた十勝毎日新聞社グループの新年交礼会の席であった。グラスを片手にキョロキョロしている私の前に、丸い眼鏡を掛けた、ラフな痩身(そうしん)の男が現れ、私の目をのぞき込むように見ながら静かに言った。「和多田です…」「……」「いや、知ってなくてもいいんだ。……私はあんたを知っている…」
 私は幕別町出身のジャーナリスト和多田進という人は知っていたが、突然、目の前に現れたのでびっくりしたのであった。

交礼会終了後、和多田さんと同ホテルでコーヒーを飲みながら1時間ほど過ごした。その時、和多田さんは中学生の時に石川啄木の歌を全部暗記したと言っておられた。多読家であり、私の第1歌集「北方論」も読まれていて、「あれはとてもよかった」と言われ、「そうですか、うれしいな」と、久しぶりに舞い上がったものである。
 和多田さんから電話をいただいたことがある。「あなたの短歌を通して海外の農民と交流の輪を広げたいのだがね。いま、あれこれ考えてるんだよ」。和多田さんが健在であったならば、私の歌は新しい読者の心に届くこともあったのかなと思うと、残念である。
 2年前、私はある賞をいただいた。その祝賀会のテーブルスピーチで和多田さんは、「時田さんの歌にはアイヌ語が使われているけど、時田さんはアイヌの歴史や差別問題について勉強してますか」と言われた。私は祝いの席でこのようなことを言う和多田さんに、「さすが和多田さんだ」と、心の中でつぶやいたものである。
 シナノキがまだ透明なしずくを垂らしている。このしずくは和多田さんの魂のように思えてならない。
 さようなら、和多田さん。 26日夕方 合掌

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第1回目の「東京日記」(2003年4月7日掲載)

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