ショートトラック変革に4年「リレーでメダルを」 長島ヘッドコーチ初の五輪
北京五輪のスケート・ショートトラック競技で、池田町出身の長島圭一郎さん(39)が日本代表選手団(湯田淳監督、選手7人)のヘッドコーチ(HC)としてオリンピックに“初参戦”している。スピードスケートで2010年のバンクーバー五輪銀メダリストも、ショートは「全く知らないスポーツだった」。1998年の長野五輪(金と銅の各1個)から遠ざかっているメダル獲得のため白羽の矢が立ち、変革を進めてきた。本人も驚いたという就任から約4年。「日本選手も成長しているが、世界もそれ以上に進化している。厳しい戦いになるが、強化してきたリレー種目でメダルを狙う。十勝の人たちに競技の魅力が伝われば」と話す。
長島HCは、2006年トリノ、10年バンクーバー、14年ソチで五輪に出場。17年末の平昌五輪代表選手選考競技会後に現役を引退した。18年3月ごろに突然、ショート日本代表チームのHCへの打診が。結果以上に環境づくりなどを変えてほしいとの要望を聞き、「なかなかできる経験でもないのでやってみよう」と受け入れ、同年4月に就任した。
就任して最初の2年間は特に苦労したという。当初の日本代表の印象は「部活動のような雰囲気。国内なら良いが、世界では勝てないだろうなと思った。言葉は一流だが行動が伴っていない。いろいろと手を出す割には、飽きてしまい継続ができない。必死な感じもなかった」と辛口で振り返った。
土台づくりの前に組織や選手を知り、話し合い、意見を出した。時にはあえて選手を挑発したり、「オーバーなアクションを取って自分をアピールした」。「どういう流れでここまで来ているのか知らないといけない」と歴史を調べ、過去の映像も見返した。スピード時代に育んだ外国人の友人からも情報を集めた。
大きく変化したのが3年目の20年。長島HCの要望で、日本スケート連盟の湯田スピード強化部長がショートの強化部長も兼任することに。部内のスタッフも替わった。トレーニングやスケジュール、日本代表選考基準や大会方法などが明確になった。「3年目が実質1年目のような感じ」と苦笑いを浮かべる。
ナショナルチームの活動時間も増えた。午前に氷上、午後には自転車トレーニングを行うなど練習メニューも変え、合宿では日光浴の時間もつくった。この2年間の強化で「時間は足りなかった印象はあるが、面白くはなってきたと思う」と一定の手応えはある。
今後のショート界を見据えて取り組んできた。「自分はHCを長くやるものではないと思っている。競技を長く経験した若手のコーチにどこかで引き継がないと。(若手コーチが)パワーがある時期に。僕が辞めた後でも8年、12年間と、うまくつながっていけばと思っている」と力を込める。
ショートトラックは複数の選手が一斉にスタートして順位で争う競技。「ぶつかったりトラブルも多いので、本当に実力の高い選手が毎回勝てるわけでもない。駆け引きもあるし面白い」と魅力を語る。
「ルールを覚えてオリンピックを見て、さらに放送番組の解説者が上手に説明して認知度が高まれば。十勝の子たちがショートをやればすぐに日本代表になれるのではないか。向いている人もいるだろうし」と期待した。(北雅貴)