「ビンタ何百回も」「外交懸命に」アントニオ猪木さん死去、十勝も惜しむ
プロレスラーとしてカリスマ的人気を誇り、参院議員としても活躍し、1日に死去したアントニオ猪木さん。猪木さんと親交や交流があった十勝の関係者からも惜しむ声が聞かれた。(澤村真理子、津田恭平、山田夏航)
「80歳の誕生日やりたかった」
自らを“猪木信者”と呼ぶ帯広市の柳沢一元さん(63)=鳥せい帯広中央店店長=は猪木さんと40年来の付き合い。幼い頃からファンで、大学進学のため上京後、新日本プロレスの後援会に入り、交流を続けてきた。
猪木さんが来道した際は、帯広から札幌まで車で送るなど運転手やボディーガード役も務めた。「これまで何百回もビンタをしてもらった」とし、猪木さんの4番目の妻田鶴子さん(故人)には「私が1番、あなたが2番目の猪木ファンね」と言われたことも。コロナ前は毎年誕生会に参加し、最後に会ったのは2年前に都内で開かれた喜寿祝いだった。「(体の調子が)悪いとは聞いていたが、80歳の誕生日はぜひやりたかった」と肩を落とす。
「北方領土でプロレスを」
足寄町出身の石川知裕元衆院議員は猪木さんと10年ほど前から付き合いがあった。2015年に帯広市内で開かれた石川氏の野遊会や19年の道知事選の応援にも駆け付けた。猪木さんがパイプを持っていたキューバの有機農業などを共に視察したこともある。
石川氏は「最後に話したのは今年2月で、だいぶ声がかすれていた。プロレスを通じた日本の外交に一生懸命な人で、亡くなったのは残念。いつか北方領土でプロレスをやりたいと話していたことが印象に残っている」と話した。
更別村のパーカッション奏者矢島俊郎さん(63)は、1987年に都内の中野サンプラザホールで開かれた猪木さんファンのミュージシャンによる「突然卍固めコンサート」に出演。「子どもの時からファンで、前日は興奮して寝られなかった。握手をした手は大きく、バスケットボールのような肌触りだった」と思い起こす。
2009年には、帯広青年会議所の講演会の講師として来帯。当時、講演会の企画に携わった堂田和彦さん(51)=カー・フレッシュ代表=は「本当に温かい方だった。会場で3人だけに行う予定だった闘魂注入のビンタも、まだ時間があるからと、ご厚意で10人に数を増やしてもらった」と懐かしむ。