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「帯商会」元会員一人に 旧帯広市立商業学校親睦会

帯商会のアルバムを見ながら「心のよりどころの会だった」と語る石原さん

 戦時中の激動によって、4期の卒業生(161人)を輩出しただけで歴史に幕を閉じた帯広柏葉高定時制の前身「帯広市立商業学校」(1940~46年)。校名はわずか6年で消えたが、卒業生と教職員の有志でつくる帯商会は2008年に解散するまで約60年にわたり親睦を深めてきた。終戦から70年を迎える今年、ただ1人の元会員となった石原正光さん(90)=東北海道ヤナセ会長=は「苦学をともにし、助け合い、同志的な結合があった。夜間商業を出たのは誇り」と語り、往時を懐かしむ。

 旧帯広市立商業学校は1940年4月に開校。帯広柏葉高80周年記念誌には「勤労学生の新たな学びの場」「商都帯広で開校が待たれた学校」と記されている。石原さんは「農林漁業を中心とした帯広がその恩恵にあずかって栄えていくには、今で言う6次産業化していかなければ駄目だ、と。そのためには十勝を支えていく企業の経営者を育成しなければというのが根本にあった」と語る。

 開校時に1、2期生が同時に募集され、石原さんによると、1期生には梶尾花園の創業者梶尾要さんやハラデンキ創業者の原憲一さん、2期生には広橋鮮魚店元社長の廣橋保さん、徳井建設工業元会長の徳井孝則さん(いずれも故人)らがいた。愛称は「夜間商業」だった。

帯広市立商業学校の授業風景(帯広柏葉高校80周年記念誌より)

 子供の頃から鉄道の機関士に憧れていた石原さんは、高等小学校を卒業して40年4月に旧国鉄に勤務。「早く機関士になりたかったので、中学校などに行っていたら遅くなると思った。学歴なんて言葉も知らず、(学歴がなければ)上の役職になれないことを勤めて初めて分かった」と振り返る。中等教育の資格を取るため、同年の人たちに1年遅れ41年4月に第3期生として入学した。

 授業は午後6時から同9時20分まで。「5時すぎに職場を出て、家で茶漬けをすすって腹を満たして走るように学校へ飛んで行った。職場の人たちは喜んで送り出してくれた。職場の理解と応援がなければ夜間学校には行けなかった」と感謝する。

 学びやは旧啓北高等小学校(場所は現在の市総合体育館)の校舎を借り、体育では相撲や剣道、柔道に取り組んだ。「体力証検定では30キロの土のうを担いで走ったり、手りゅう弾投てきをやった」と石原さん。同記念誌では雪中行軍や帯商夏場所大相撲などの学校行事の様子を伝えている。

帯広市立商業学校の全校マラソン大会の様子(1942年4月。帯広柏葉高校80周年記念誌より)

 充実した学校生活も戦局に翻弄(ほんろう)される。石原さんは2年生を終えた43年4月、特別幹部候補生に志願し、陸軍航空通信学校(茨城県)へ。帯広市立商業学校は工業学校に変更され、4期生の卒業を最後にその名前を消した。45年に帯広に戻った石原さんは、学校の配慮で4期生とともに46年3月、卒業証書を与えられた。

 帯商会は49年に発足し、毎月12日に飲食店で例会を開いて交流を続けてきた。卒業生の他、講師を務めていた故林克己十勝毎日新聞社元社長らも会員に名を連ね、多いときには30人近くが在籍した。会員の夫人でつくる「ふくみ会」も発足し、年に1度の旅行会を楽しんだ。会長は今月10日に亡くなった梶尾要さんが発足から解散まで務めた。「58年間も1人を会長に頂いた、こんな仲良しなクラブはない」と石原さんは胸を張る。

 2008年7月の最後の会では、「最後まで残った人が会旗をみんなのもとに持って行く」と約束した。石原さんは「俺が最後の男になったんだなと、万感胸に迫るものがある」と話している。(澤村真理子)

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