【写真特集】北海道、青森を回る遺跡探求ツアー
十勝幌尻農場(山口富嗣代表)は3日から5日までの3日間、北海道と青森県を回る「遺跡探求ツアー」を開いた。その様子を写真で紹介する。
初日、帯広から平取へ
帯広市内では、シカ用の落とし穴が見つかった宮本遺跡(JICA帯広付近)、道内最古とされる若葉の森遺跡(西16南6付近)、全国的にも豊富な8000点以上の石器が出土した暁遺跡(聖公会幼稚園付近)などを回った。山口代表は「小高い地域には決まって集落ができた」と言い、これまでに帯広では数多くの集落跡が発見されている。
内閣府が公開している資料によると、縄文時代の日本国内の人口は10~26万人ほどだったとされており、人々が長きにわたって帯広に居住していた事実は歴史的な価値がある。「水資源が豊富だったこと、縄文人の主食とされるウバユリなどが豊富に採れたことに加え、十勝が黒曜石の一大産地だったことが、帯広が栄えた要因だ」と山口代表は語る。
帯広を離れ、一行は音更町内の郷土文化資料室(生涯学習センター内)を訪れた。今年リニューアルされた資料室では、古代から現代までの音更の歴史を展示資料によって振り返ることができる。参加者は展示室を埋め尽くす土器の数々に目を奪われていた。
一行を乗せたバスは平取町へ走った。アイヌ民族初の国会議員となった萱野茂氏の先祖は、同氏の親戚によると十勝出身(伏古アイヌ)だという。町内にある萱野茂二風谷アイヌ資料館には萱野氏が収集していた4000点を超えるアイヌ民族の生活用品などが展示されており、うち200点が国の重要文化財に登録されている。参加者はアイヌ資料の数々を熱心に見入った。
2日目、函館の遺跡を巡る
昨年、「北海道・北東北の縄文遺跡群」として青森の三内丸山遺跡などとともに世界文化遺産に登録された大船遺跡と垣ノ島遺跡を訪れた。
大船遺跡は100棟を超える竪穴式住居や墓地、祭祀場などが出土しており、縄文人の精神生活のあり方を垣間見ることができる。再現された縦穴式住居などを見学した参加者からは「村長は存在したのか」など質問が飛んだが、同遺跡のガイドによると「まだ分かっていないことが多く、現在も調査発掘中」。
垣ノ島遺跡に作られた、道内唯一の国宝「中空土偶」が展示されている縄文文化交流センターで縄文人の暮らしを学んだ。矢尻や土器など1500点もの展示に参加者は圧倒されていた。新潟から採取されたひすいが見つかっていることなどから、「北海道と本州を結ぶ公益の中継地点として栄えていたと考えられている」(同館ガイド)。
同遺跡では函館では採れない黒曜石も展示されており、十分なデータがないことから現時点では十勝産と判別できる石は見つかっていないものの、同館ガイドは三内丸山遺跡で十勝産の黒曜石が見つかっていることなどを踏まえて「十勝産の黒曜石もあるのではないか」と話し、十勝と本州の間で交易があった可能性も示唆した。
3日目、青森県の遺跡巡り
3日目は同じく世界遺産登録された青森県内の大森勝山遺跡、大平山元遺跡を訪れた。
弘前市にある大森勝山遺跡は標高140メートルほどの丘の上にあり、国内では珍しい環状列石の跡が発見されており、祭祀遺跡として貴重な存在だ。丘の下には沢が流れ、集落を囲むように栗の木やワラビが自生している。食が豊富で縄文人にとって格好の居住地だったと考えられる。
津軽半島に位置する大平山元遺跡では土器のかけらなどが発見されながらも住居跡は見つかっておらず、「遊牧生活を送る縄文人の季節的な拠点だったのではないかと考えられている」(同遺跡ガイド)。詳細は不明だが、見つかった土器は津軽半島で採れた粘土で作られていた。わずかに黒曜石も発見されているが北海道産のものはなく、山口代表は「北海道は資源が豊富で、黒曜石の代わりに受け取る物がなかったからではないか」と推察している。
帯広の遺跡、もっと発信を
帯広には3万年以上前から人々が住んでおり、これまでに道内最古の石器や土器も見つかっている。これらは帯広百年記念館などで展示されているものの、その存在が積極的に発信されていないとの声もある。
山口代表は「帯広には看板すらない遺跡も多く、市はもっと積極的に発信すべき。せめて広報紙などで周知することはできる」と指摘する。実際に3万年前の石器が出土している若葉の森遺跡に看板は設置されていない。
ツアー最終日には弘前市内にあるリンゴ農家「葛西農園」の畑を訪れ、リンゴ狩りを楽しんだ。名産地の味に参加者からは笑みがこぼれた。
帯広市から参加した渡辺勇さん(84)は、「地元にたくさんの遺跡があることは知らなかった。帰ったら友人にも教えてあげたい」と話していた。
山口代表は遺跡を中心とした観光産業の活性化もできると考え、私財で歴史文化施設を設立することも考えている。