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インタビュー編(7)差別見逃しているのは私やあなた インクルーシブ教育を実践する大阪・豊中市の元小学校教諭 山口正和さん

高田 英俊

十勝毎日新聞社 編集局整理部

【やまぐち・まさかず】
 1970年、豊中市の小学校の教諭になる。弱視教室の担任や養護学校教員の経験もある。豊中市が78年、「ともに学び、ともに育つ」を理念とした「豊中市障害児教育基本方針」を策定した過程に携わる。現在、NPO法人「箕面市障害者の生活と労働推進協議会」の理事、相談支援員。市民団体「障害児を普通学校へ・全国連絡会」の世話人。77歳。

 -障害の有無に関係なく「ともに学び、ともに育つ」を理念とする豊中市で教員を務めた。
 勤務したある小学校には障害児の「特殊学級」がなく、障害のある子は同学級がある近隣校区の学校に通っていた。本来、私がいた学校に通っていたはずのある障害児は、帰宅中、自分の校区内でいじめられていた。その子を知らない子たちがいじめていた。

 障害のある子が普通の学級でうまくいかない。皆と一緒にいると、なんやかやと言われてうるさいから、障害児学級の教室で学ぶようにすると、先生と1対1になり、それも嫌だった。教室を行ったり来たりし、結局、その時々に応じて両方の教室が逃げ場になってしまっていた。本人にとって良くないと教員たちで話し合い、別教室にはもう行かせないようにした。

 ある小学校では発作を起こして倒れることがある子がいて、常にヘッドギアを着用していた。進学するはずの地元の中学校は荒れていて、母親は心配だからと養護学校へ行かせようとした。すると、同じ教室で学んできた周りの友達がその母親に「どうしてそんな別の学校に行かないといけないの?」「本人に気持ちも聞かずに、おかしい」と言い出した。

 別の親がその母親に、その中学校には「いじめる子もいるけど、止める子もいる。養護学校には助ける子がいるのか」と話し、その子は結局、地元の荒れた中学校へ進んだ。

 障害がある子や周囲の友達、親、保護者にまつわる例は枚挙にいとまがない。 

 ある小学校の中学年の子が公園の滑り台で3歳児を突き落とした。今で言えばおそらく注意欠陥・多動症(ADHD)だったのだろう。起きたことは大変なことだが、ある先生は「いい機会だ」と言って、「この地域にはこんな子もいる」と近隣地区の各世帯に話して回った。親では絶対にできないこと。教師だからこそできた。同じ先生でも、ちょっと教室で立ち歩く子の面倒を見られないと言う人もいる。

 発達障害の子どもたちは皆と合わせないといけないと強制力がかかり、それに付いていこうとする。だがそうでない重い障害の子たちには、周りが合わせざるを得ない。だからこそ社会が障害のある人たちを理解し、誰もが共に生きられるように変わっていく。障害がある子と一緒にいたら、面白いことがたくさんある。

 -全国的にはインクルーシブ教育はなかなか広がらない。
 アジアやアフリカの諸国がインクルーシブ教育の研修で毎年、来日し、大阪市や豊中市を訪ねてくる。インクルーシブ教育はある意味、安上がりでもある。日本は資金があるから特別支援学校を作っている。

 だが、どれだけお金をかけても障害者が健常者にはならない。にもかかわらず、特別支援学校へ行けば何かが変わるような幻想を持たせている。療育施設に通えば皆に追い付けると言う。発達障害なら別の教室でちょっと指導すれば良くなるとか、そんなものは幻想だろう。

 特別支援学校の児童・生徒1人当たりにかかる教育予算は、地域の学校の普通学級の子らの7~8倍という。コストをきちんと計算すれば、皆が一緒にいる方が経済的にも理にかなっているかもしれない。障害者が世の中に出ても囲い込まずに、皆と一緒のところでサポートしながら、国なりが助成すればいい。結局、お金をかけてでも排除しておいた方が楽だからだろう。

 働く人たちの間にも差別はある。障害があるから仕事が軽減されている人でも同一賃金だとなると、健常者から不満が出る。だが、小さい時から一緒にいれば、「あいつはあいつ。それなりに大変なんだから」となる。子どもの頃から一緒にいるのは、すごいものなんだ。

 -なぜ豊中では半世紀近く、インクルーシブ教育の実践を続けてこられた。
 「障害児教育基本方針」を策定し、明文化していたのが大きかっただろう。

 大阪には歴史的な経緯から被差別部落の地区があり、在日韓国・朝鮮人が住む地域がある。障害児教育基本方針の源には、差別解放を目指す同和教育や在日の人たち、障害者、両性の平等に重きを置いた人権教育があった。教員たちの間には、これらは全て被差別でつながっているとの問題意識があった。

 市の「同和教育基本方針」が出て数年後、教員から障害児教育の問題も書き出すべきだと意見が出て、一つの項目として独立させることになった。根底にあったのは「分けることは差別」との人権意識であり、障害のある子とない子が一緒に学び、生活し、成長することを目指した。

 当時は養護学校があったが、重度や重複の障害がある子たちが就学免除・猶予とされて、学校に通っていない状況があった。養護学校の義務化の方針が立てられ、1979年に実施されることが決まっていたので、豊中はその前に方針をまとめようとした。「ともに学び、ともに育つ」の理念を明確に打ち立てた同方針は、78年に策定された。

山口正和さん


 養護学校義務化は受け止め方が異なる人たちがいた。発達保障ができると賛意の人たちもいれば、障害児を分ける状態が制度化され、線引きされ、囲い込まれてしまうと私たちは反対した。相手に反論されたからこそ、理論武装が強固になっていった。

 豊中が理念と実践を守ってこられたのは、もし市議会などで一部に批判があっても文書化していたのが強かったのだろう。さもないと、人が変われば、ころっと変わっていたかもしれない。

 少なくとも私が勤めた学校では、年度末にその年を総括する「紀要」を作成し、翌年度初めに学校運営方針を立てた。人権教育も算数や図工の授業の組み立ても全て含んでおり、障害児学級は他校から異動したばかりの教員を担任にしないと定め、文章にしていた。

 市の教職員組合には「障害児教育委員」がいて、必ず普通学級の担任が務めた。障害児を教えるのは障害児学級の担任だと分かれた意識にならないように考案された仕組みだった。

 同じ大阪府内で、箕面市や枚方市などの15自治体の教職員組合「15単組」が多少の温度差はあっても、部落解放運動とつながって強い活動をしていた。一方で、一部の南部の市では小中学校3~4校に1校のように障害児学級を設けている。

 そうした障害児学級は大規模になり、事実上、学校内に特別支援学校があるような状態だ。自分の校区を離れて越境通学を迫られるような地域がある。分ける方が幸せだと思い込んでいる。一緒に障害者と暮らす中で、肌感覚なら分けないのがいいと感じるのが自然ではないかと思う。

 教師はやっぱり不正や差別があったら何とかしたいと考える人たちだ。多くの教員は、子どもが幸せになってほしいと思ってこの仕事に就いている。だからどの自治体でも受け入れる素地はあるはず。私は偏執狂とまで言われたことがあるが(笑)、豊中にはそういう人間も包摂する懐の深さがあったのかもしれない。

 -文部科学省は22年4月27日に発した通知で、特別支援学級に在籍する子は授業時数の半分以上を分けるようにと教育現場に伝えた。
 通知は日本全国のほとんどの地域では影響がない。文科省に言われた通りにしているからだ。大阪や北海道のある地域が子どもを分けない取り組みをしている。実質は普通学級で皆が一緒にできるようにしている地域を狙い打ちし、言う通りにさせたいのだろう。「半分以上」の根拠はない。7割でもゼロでもない。そんなことを決めること自体が問題だ。

 文科省も知恵を付けている。従来、就学先は教育委員会や学校側が決める形であり、今もそうだ。だが、「本人や親の意見を最大限尊重する」と明記し、本人たちが選んだ形になっている。特別支援学校・学級へ行けばいろんな支援があるが、地元の学校へ行けば助けはない。そんな措置は差別だろう。

 インクルーシブ教育へと転換するには、公教育を根本から変えないといけない。文科省はそれをしたくない。国連が昨年の勧告で、「4・27通知」も特別支援教育もやめろと言っているにもかかわらずだ。

 日本が2007年、それまで「特殊教育」だったものを「特別支援教育」にしたのは、世界の潮流に対して、このままでいいのかと考えた文科省の官僚たちがいたからだ。だから「場を分けた教育」から「ニーズに応じた教育」へとパラダイムシフトしようとした。本来、これが根幹だった。

 だが、そんなことをしたら特別支援学校や学級がなくなる。全国特殊学級設置学校長協会(現・全国特別支援学級・通級指導教室設置学校長会)が猛反対した 国は表面的なごまかしではなく本気でインクルーシブ教育へかじを切ろうとしていたはずだ。文科省内にも綱引きはある。ちなみに当時、特別支援教育に真っ先に反対を唱えたのは、北海道教職員組合だった。

 -インクルーシブ教育になるのに、教師の意識を変えるには。
 それはなかなかに難しい。だがインクルーシブ教育をやろうとするには教員の意識が変わらなければならない。

 障害への差別がきついから、発達障害だと言われて、親は救われる。自分の育て方ではないと分かるからだ。だが、親に「迷惑かけてすみません」と言わせているのは、周りにいる人たち。一番言わせているのは教師たちだ。差別を見逃しているのは私であり、あなただ。発達障害は、肩身の狭い想いをしていた親たちを救ったかもしれないが、本人を救っているとは思えない。

 もし教室内に、何かを教えても、どうしても理解できない子がいたとする。一生懸命分かってほしいと思うのが教員のさがだ。分からせようと努力している先生の姿を周りの子どもたちは見ている。

 子どもたちが大人になって社会に出て、物分かりが良くない部下に伝える時や自分の言うことを分かってもらえない時、その先生の気持ちが分かる。これも含めて伝えるのが学校。試されているのは、教員だ。

 ただ一方で、教員は教えるのが仕事ではあるが、子どもができなくても、「なんぼのもんや」と開き直りもあっていい。できないと価値がないと思わせる。そこまで追い込む学校は、子どもを幸せにしない。できなくても別に構わないだろうという度量が必要だ。今、なぜ子どもたちがおかしくなるのか。そこには理由があるはずだ。

山口さんが現在、理事・相談支援員を務めるNPO法人「箕面市障害者の生活と労働推進協議会」の事務所には、大きな額に「ために ではなく ともに」の標語が掲げられている


 障害者の自立した生活や労働を支援する私の現在の勤務先は、「『ために』ではなく『ともに』」という言葉を掲げている。障害者に対しては、ともすれば上から目線になってしまい、あれをした方がいい、と生活指導をする。本当に一緒に生きるのであれば、「ともに」という意識で横並びにならないといけない。研修で簡単に意識は変わらないだろう。

 要は、目の前に障害のある子がいることだろう。目が見えない子がいれば、教員は点字を取り入れるため、学ぼうとするかもしれない。耳が聞こえない子がいれば手話に目を向けるかもしれない。

 教員は自分のクラスの子なら、どうすればいいのかと考える人たちでもある。いくら本を読んで知識の量を増やしても、障害のある子が近くに来ないと分からない。障害がある子を包容させることだ。面倒くさいことも多いかもしれないが、楽しいこともいっぱいあるだろう。

 制度面や教員の配置人数がどうこうではなく、少人数になればできるということでもない。1クラス20人で複数担任になり、負担が軽くなったから障害がある子を見るようになると言うのも違う。子どもの障害の重さは関係ない。教員が、この子は邪魔、自分のクラスの子じゃない、と思ったら排除されてしまう。

 ハードルになっているのは、物理的な制度ではなく意識だろう。インクルーシブ教育とは万人のための教育だから、何よりも、どんな人も分けないこと。嫌な人、大嫌いな人も分けない。どんな人でもとは、教員にも当てはまる。優秀な教員ばかりでは、できない子の気持ちは分からない。学校はそういう場所でないと、子どもは幸せにはなれない。

(「連載・子どもを分ける学校」インタビュー編を終わります)  

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