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インタビュー編(5) 自己肯定感下げないで 社会で子育てする時代へ 児童デイサービス「花咲か舎」 若菜順代表理事

高田 英俊

十勝毎日新聞社 編集局整理部

【わかな・じゅん】
 山形県鶴岡市出身。鶴岡市や札幌市、釧路市での小学校教員を経て、北海道教育大学で学校臨床心理専攻専修(修士課程)。2004年に十勝へ移住。帯広市教育委員会の相談員、道立帯広高等技術専門学院の特別支援教育の厚生労働省モデル事業でディレクター、星槎国際高校帯広学習センターの教員などを務めた。小中高の教員免許を持つ学校心理士、芽室町の適応指導教室指導員、スクールカウンセラー。療育施設や子ども食堂、フリースクール「くるみの森」、不登校を語る親の会「時熟」などを運営・主宰する。63歳。

 -十勝での発達障害の広がりをどう見てきた。
 言葉が広がってきたのは2000年代前半だった。十勝には発達障害に詳しい医師がいて、十勝LD&ADHD懇話会を立ち上げていた。「発達障害って何?」と皆がよく分からない時に、医師から診断のお墨付きを得た親たちは、子どもの困り感を学校へ訴えられるようになった。

 あの頃の母親たちは一人で悩んでいた。十勝や釧路市の医師が相互に往来して講演会を開いていた。懇親会で母親20~30人が一言でもアドバイスを得ようと医師を取り囲んでいた光景が忘れられない。同懇話会は数年前、一定の役目を終えたとして解散となった。

 発達障害はその定義や分類が時代によって変わってきている。成長や環境の調整に伴って症状や行動が落ち着いたり、消失したりすることも多い。数値で診断できるものでもない。診断は専門家の間でも意見が分かれるほど難しいという。

 何のために診断を受けるのか。子どもにメリットがあるのかなど診断を受けるべきか保護者が判断できる情報が非常に不足していることが問題だと感じている。学校も診断を勧める際に、その目的とその後提供できる支援のメニューを伝える必要があるのではないだろうか。

 「『診断』という医療の営みが、学校の先生が子どもたちの迷惑行為や問題行動について『考え、試し、発見する』機会を奪っている状態を招いている」と言う人がいたが、その通りだと思う。

 子どもには、環境を整えてあげることが最大の治療だと思う。だからこそ、診断後が大切になる。家庭や学校だけに子育てを任せるのではなく、社会的処方と言われるように社会全体で子どもを育てる環境が必要だ。

 -親や教員の目線は。
 例えば、とても忘れ物の多い小学生がいる。自閉スペクトラム症(ASD)と診断され、特別支援学級に在籍する。自宅へ送ってあげると、ランドセルを広げて、中のものをぶちまけ、片付けようとしない。そりゃあ忘れ物もするだろう。

 全部を一つ同じ場所へ入れておく、持参した物をメモに書いておく、帰る時は全てそこから持ち帰るなど工夫はできる。ただ、それさえ気が乗らない様子であるのは、発達障害だから仕方のないことなのだろうか。

 集中できない子もいるが、「ウルトラマンデッカー」が好きだから、ある先生が独自にデッカーを入れたプリントを作ってあげると、取り組む際に集中する。他と違う子はいるが、だからと言って脳の機能障害だ、発達障害だと言って、原因を医療の診断結果に委ねてしまうことこそ、「教育の医療化」になっていないだろうか。

 医療のみに委ねないこの先生は、この子が好きなものなら集中力は続くのではないかと「考え」、ウルトラマンデッカーのプリントを「試して」、この子が出来ることを「発見した」のだ。この過程がないと、もう治らないから周りが理解しなければいけないという間違った考えになる。

若菜順さん


 学校で分けられると、段々差が広がってしまう。知的障害の子たちは給食も少人数で食べる。体験や知識の量は絶対に減る。ある中学校の特別支援学級では授業時間の大半で工芸品作りをしていた。

 発達検査は同年齢の子どもたちの発達年齢と比較して、検査結果を出している。知識量だけを計っているわけではないが、同年齢の子どもの学習が進めば進むほど、そこから遠ざかっている子どもたちの発達指数は自ずと下がってしまうだろう。どんな子どもであれ成長には適度な負荷は必要だろう。

 親も先生もゆとりがないかもしれない。親は診断を避けたい人がいる半面、子どもが発達障害だと判定されることで納得し、受け入れるようになる人もいる。特別支援学級に在籍することで、自己肯定感が下がってしまう子どもがいることは事実だ 親に対して、申し訳ない気持ちを持ち、自分は駄目な子、劣っているといった感情をずっと抱えることにならないだろうか。

 -特別支援教育の在り方をどう見る。
 分離された特別支援教育ではなく、米国のように全体での学習から少人数学習へ、さらに個別化へといったシステムができれば良いのではないだろうか。学習内容が確実に理解できなくとも、同年代の子たちが何を学んでいるか知ることは、世界を広げてくれるはずだ。

 特別支援教育制度が始まって16年がたった。この間にこの教育を受けた子どもたちの感想やその影響について、ぜひ聞いてみたい思いだ。

 -療育施設(注1)の運営を通して見えることは。
 自己肯定感が低い子が多い。周囲もこれができる、あれができるようになってほしいと願っている。同年齢の子たちと比べて、できないことも多く、園や学校、家庭でそれを指摘されて、「駄目な自分」と思ってしまっている。意欲や関心の低下、依存、トラウマの増加が心配される。だからこそ最も気をつけていることは、自己肯定感を下げないことだ。

(注1)療育施設・・・障害のある子やその可能性がある子どもの障害特性や発達状況に合わせて、困りごとの解決を図る。

 幼いうちはできないことを励ましながら伸ばすことが大切だが、思春期あたりからはできることを伸ばし、自己肯定感を下げない関わり方をする方がはるかに幸せな人生を歩むことができる。

花咲か舎に通う子どもたちがハロウィーンを控えて作った作品(23年10月下旬、JR帯広駅構内)


 事業所はその日の最後に、「反省」ではなく「一番印象に残ったこと」を話す。自分や友達の気持ちに目を向けること、伝えられること、共感できることなどは幸せや心の豊かさには大切なスキルだ。

 運営している施設では、親への報告で日ごとに必ず一つほめる部分を記述する。読んだ親がポジティブになる。子どもへの愛情が増える。我が子の知らない側面を知る。学校だけでは賄いきれないことを補えるのかなという思いはある。

 子どもも分かってもらえたと感じるし、何かができたとうれしくなる。自己肯定感を育んでもらうように、心の中を動かすことが大事だろう。そのためには、ある一定の大人だけではなく社会の様々な大人が「斜めの関係」で関われる、その子に合った環境が必要だ。それがその子の「第3の居場所」になる。私のライフワークでもある。

 それぞれの親は何に対しても自己の価値観があるだろうし、大きな問題がなければなかなか曲げられない。だが、それだけで自分の子に向き合って、果たしてうまくいくのだろうか。親プラスアルファの子育てが世の中に必要なのではないか。

 先日、ある精神分析医にそんな話をしたら、「他人に育ててもらえばいいんだ」という言葉が返ってきて、すごくしっくりきた。親だけ、先生だけでは難しい。療育をしながら、子どもを育み、育てる場所にしたい。

 -他人に育ててもらうとは。
 幼保段階で子育ての不安があおられてしまい、子育ての医療化が進んでしまっている。発達障害の診断が下りたから安心したという親もいる。うちの子はなぜと感じて、「発達障害」という言葉がきっと最初に頭に浮かぶ。それが検査の数値で判断されてしまう。

 自分の育て方、関わり方にもっと別のものがあったのかなと発想すれば、何かが変わるかもしれないが、療育へ通わせれば、外れた行動が是正されると誤解する。

 だが、大半の子どもは小学1年生などある程度の年齢になれば、場をわきまえて行動できるようになる。2年生になれば先輩になるから、また頑張る。不安になったら医療を頼ってもいい。でも解決してくれるわけではない。そこから先が大事であって、だから特別支援学級へ入れる、ではない。

 何かのカテゴリーに押し込めて、グループ分けすれば終わりではいけない。ヤングケアラーも同じ。不登校の子どもは、家庭環境を調べると実はヤングケアラーだったといった事情がある。ヤングケアラーは昔からいた。最近出てきた言葉を付けて終わりではいけない。

 発達検査をしてもいい。だがそれは一生のものではない。その日のその子の心理的な状態や検査担当官との相性でも、幼い子ほど結果は変わる。多くの目で子どもを見ていく子育てが大切になっている。

 50年ほど前、自分探しの時代があった。核家族化が進み、自分探しと言われた世代に育てられた子が、今は親になっている。自分に価値を見いだしていた時代。親は、都会に出て、学歴を得て、自分の子どもに自由を保証したがった。いろんな束縛から逃れた時代があった。それは社会が段々と個に分断されていった時代でもあり、個を大事にしたからこその離婚というものもある。そういう世代が生んだのが今の子どもたちだ。

 貧困問題に取り組む著名な社会活動家も講演で言っていた。1950~60年代は「しがらみの時代」、70~80年代は「個の時代」、90年代は「孤の時代」、そして東日本大震災から現在、やっぱり人のつながりが大事だと意識されるようになってきた。

 子ども食堂で育った子が親になったらどうなるだろうか。子育てを他人にも任せられる社会になればいいなと思う。特別支援学級にいる子の親は、一人で奮闘しているのではないだろうか。「いやあ、うちの子もそうだったよ」と祖父母や誰かが言ってくれたら楽になる。

 SDGs(持続可能な開発目標)の次には、ウェルビーイング(個人が肉体的、精神的、社会的に満たされ、幸福、充実した状態)の時代が到来する。幸せはやっぱり「個」では成り立たない。子育ても同じで、「皆でやればいいよ」と言える社会になればと願っている。

(「連載・子どもを分ける学校」インタビュー編は、電子版で毎週月・金曜日に無料配信します。教育や共生についての多様な意見を紹介します)  

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