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インタビュー編(1)支援学級へ逃げなかったから今がある 大阪・豊中で障害者の自立を支援する上田哲郎さん

【うえだ・てつお】
 脳性マヒのために意思とは関係なく体が動く不随意運動があり、この数年は車いすを利用する。小学校から大学まで分けられた環境ではなく、多くの仲間と過ごす。現在はNPO法人CIL(自立生活センター)豊中の主任相談支援専門員として、障害者の自立を支援する。豊中市障害者自立支援協議会の会長ほか、さまざまな市民団体の幹部を務める。47歳。

 -小学3年から地域の小学校で過ごした。
 地域の小学校へ入学するのに、最初は校長に断られた。「身辺自立をさせた方がいい」と言われた両親は、3年生から絶対に地域の学校へ行かせると目標を立てた。養護学校に2年間通う間、1年は入院してリハビリに励んだ。

 母はこれだけのことをやったと校長に伝えて、転入学を認められた。小学校ではまったく支援学級に行かせてもらえなかった。

 -行かせてもらえないとは。
 転校した当初、とてもしんどかった。支援学級があり、その存在も知っていた。豊中にはどの学校にもあった。遊び道具がたくさんあり、トランポリンがあって遊べる。子ども心から行きたいと思った。だから担任に疲れたと言った。

 でも担任は「教室の後ろにござを敷いてあげる。横になってなさい」と言った。ござはぼろぼろ。しんどいと訴えても支援学級に行けないと思い、もう疲れたと言わないようにした。

 疑問に思っていたので、大人になってから他の先生に尋ねた。通っていた小学校は、豊中でも「発達保障」(注1)を重視する先生たちが集まる学校だったが、ぼくの担任はいわゆる「原学級保障」(注2)の考えの人だった。

(注1)発達保障・・・乳幼児から大人まで、障害の有無に関係なく、潜在能力や尊厳、価値を主張し、人権や自由、多様性を尊重すること。人格や才能、精神的・身体的能力を最大限発達させるのを目指す取り組み

(注2)原学級保障・・・障害がある子のニーズに応じて設置された学級はあくまでも一時的に行く場所であり、通常の学級が本来通うべき学級であるとの考え方

上田哲郎さん(CIL豊中で)


 担任は支援学級に行って欲しくなかったのだろう。その時は遊べる所へ行けず、いやだった。だが後から思えば、あの時もし支援学級へ行っていたら、今とは違っていただろう。学校へ行くのが嫌だと号泣しても、母親はぼくを学校へ行かせた。

 逃れていたら、さぼり癖がついた。自分は特別な存在という考えを持っていたかもしれない。そうなると大人になるにつれて、いろいろと頭を打ったのではないか。学校生活の友達との思い出がなくなっていたかもしれない。今考えたら怖さを感じる。
 
 -どんな思い出がある。
 当時はまだ週休2日ではなく、土曜日午前に授業があった。校区の真ん中にロッテリアがあり、7~8人で昼食を食べに行った。ぼくはまだ補助輪付きの自転車に乗っていた。現地集合して、皆で食べて、小学生のくせに「俺たち大人じゃん」と有頂天になっていた。その時の大人感は、今でも恥ずかしい(笑)。でもこれは養護学校にいたら絶対にできなかった経験、思い出だろう。

 養護学校で自立活動と言って、何かの買い物のやり方とかを学んでいた。だがそんなこと先生が教えるものではない。友達と遊びながら学んでいくものだろう。

 -地域の小中学校に通って、周囲から助けはあった。
 ロッテリアでトレーがうまく持てなかったが、友達は自然に持ってくれた。いつも一緒にいるから何も言わなくても、ぼくができること、できないことを勝手に分かってくれていた。中学校は、4つの小学校から子どもが進学し、新しい友達ができると期待した。友達作りで万博公園の遊園地エキスポランド(2009年閉園)へ行って遊んだ。

 -卒業して府立高校へ進学した。
 思春期であり、反抗期。皆が行くなら、自分も行こうかなと軽いのりだった。やんちゃが格好いいと思い、制服が学ランの学校へ行きたかった。

 ちょうどその学校(箕面東高校)は、やんちゃな学校から良い学校に転換したかった。進学校や中堅校から新しい先生が転任し、何とか立て直さないとという空気があった。でもそれまでいた先生たちは、こういう学校があるから世の中が回っていくと考えていた。

 そのころ文化系の部活動で、障害者や在日韓国・朝鮮人、同和問題の3つの研究会が生まれた。いろんなしんどい子が来るような高校だった。ぼくは入学式の前に、障害者問題研究会の顧問の先生から「キャンプするからおいで」と誘われて、宴に混じった。いい時代だったのかな。高校っていいとこやなと思った(笑)。

 でも新しい先生たちは「この子のために。この学校のために」良くしていこうと思ったのか、制服は上下が決まっていて、髪は黒でなければ駄目だとチェックが厳しかった。3回引っかかると1日停学。ぼくはそれまで自分のことを障害者だとそんなに思っていなかった。でも自分の障害と重ねるように見て、全部が同じでいいのか、同じ事ができないとダメなのかと疑問を感じた。

 実際に同じことができない人を知っていたから、いろいろ反抗して、生徒会もやって、その時にかなり悔しい経験をした。

東京大学大学院教育学研究科付属バリアフリー教育開発研究センターの講演者として、上田さんが話した内容のスライドの1枚(2023年7月)


 -何が悔しかった。
 ある友達は元々地毛が茶色だったが、黒に染めてこいと言われた。ぼくはわざと赤く染めて行った(笑)。3日間くらい別室に入れられて、先生が一人ずつ説得しにきた。
 
 生徒会長に立候補して、今のルールは厳しすぎる。しょうもない(くだらない)ことと訴えた。でも何も変わらなかった。違うことを認め合った上で、同じ環境にいないとといけないと余計に感じた。

 労働組合活動を頑張っていた先生は、もっと地域の学校に障害のある子を入れなさいと大阪府と交渉していた。一緒に行って白熱した交渉を見せられた。これがあるから大阪は障害のある子が地域の学校に行けるのだと知った。点数を取れない子も高校へ入れろといろいろな組合が交渉していた。その刺激は大きかった。

 -その後大学へ進学した。
 卒業を控えて周りの子は体を使って働く子が多かった。でも自分はできない。作業所で働くなんて、もちろん考えていなかった。女の子にももてたかった(笑)。これは稼がないとあかん。ならば勉強しなければと考えた。

 高校在学中に近隣県の障害者雇用枠の試験を受けに行った。試験と試験の合間に、おそらく特別支援学校の関係者らしき人に、「どこの養護学校の子?」と聞かれた。普通の高校から受験しているのに、他県はまだこんな感覚なのかと思った。大阪みたいな地域があると大学へ行って広めたいと思い、2年浪人した。最後に合格通知をくれた大学(佐賀県の西九州大学)へ進学した。親は心配だったろうが、行かせてくれた。

 一人暮らしが始まるが、2次試験で受かったので 物件が少なく、たまたま新築の2DK(笑)。1年目は友達作り、2面目は彼女を作ろうと思って、彼女ができた。それは楽しい4年間だった(笑)。でも1年生の英語を4年間受けた。

 卒業旅行をしたくて、アンケートを取って、企画していった。友達3人と企画したが、実態はぼくのわがままを聞いてくれていた。結局、同じ社会福祉系の学科の8割以上の約150人が来てくれて、その様を見ているだけで楽しかった。

 発案の元は高校時代の体験にあった。居酒屋の座敷を貸し切って、文化祭や体育祭の打ち上げと称して宴会をしていた。留年している子も多くて、一つ下の学年とも仲が良く、多い時で50~60人の大宴会。楽しかったので大学でもやってみたいなと思った。

 やっぱり自分は高校時代のやんちゃな経験があったから、人をまとめたり、楽しいことを考えたり、できたんじゃないかな。

東京大バリアフリー教育開発研究センターの講演で、上田さんは「原学級保障を !」と訴えた(23年7月)


 -培われた行動力で、日本の特別支援教育を中止する勧告をスイス・ジュネーブの国連欧州本部へ出すよう訴えた。
 文部科学省が昨年4月、(特別支援学級に在籍する子どもは授業時数の半分以上を個別指導にと求めた)通知を出す前から、何か伝えに行きたいと思っていた。どんどん子どもが分けられているから。子どもに対応した社会福祉制度や養護学校での学校生活、作業所への就職など生活や人生が決められてしまうようなところがある。それでいいのかとの思いがあった。

 皆、障害がある子のことを知らないから、良かれと思ってやっている。自分の実体験を含めて考えると、あの時地域の小学校へ転校していなかったら、18歳まで養護学校にいて、人間関係は希薄で、卒業後は作業所へ行って、友達もいない。そういう過ごし方になっていたんじゃないかと考えさせられた。

 障害があると、子どものころから分けられているから、関わりがなくなる。良かれと思う人がいても、本人はどう思っているか分からない。元を正せば、子どもの時に分けるから、そうなる。特別支援教育に福祉制度。障害者がもっと地域で過ごすには、子どものころから一緒でないといけない。

 自分が過ごしてきたのは大阪の原学級。支援学級の子は、半分以上をそこで過ごせという通知は、自分のこれまでの生き方が否定されたような気がした。

スイス・ジュネーブの国連欧州本部へ行った際の活動を講演会で報告


 一木さん(東洋大学人間科学総合研究所の一木玲子客員研究員)に、「ジュネーブに行きたい」と言うと、けっこう軽めに「てっちゃん、パラレルリポート、書いたら?」と返ってきた。そうすれば向こうで3分間発言できると教わった。英語は読むことも書くこともできない。

 たまたまぼくをインタビューしたことのある大学院生がいて、インクルーシブ教育の研究をしていた。一緒に食事した時に、英訳して欲しいと頼むと、快諾してくれた。勉強ができなくても、どれだけ人とつながっているかで、何でもできるんだなと悟った。

 東京大学の熊谷(晋一郎)先生(脳性マヒの小児科医、東大先端科学技術研究センター准教授)が「自立とは依存先をたくさん作ることだ」と言っている。その通りだと思った。
 

障害のある子もない子も、子どものころから一緒に過ごさないといけないと上田さんは信じている(東京大バリアフリー教育開発研究センターの講演で、23年7月)


 -これまでのキャリア、仕事は。
 佐賀の大学から戻ってきた頃、就職氷河期で仕事がなかった。もっと勉強しないといけないし、もてたいし、はくをつけないとと大学院進学を考えた。英語は苦手なので、研究計画書だけで受験できる大学院を探し、計画を出したら合格できた。

 大学院生時代にNPO法人のCIL豊中に誘われて、2006年ごろ、緊急雇用事業でバリアフリーマップを作成することになった。仕切ってくれと言われ、主任として入所した。

 その仕事と並行して府立高校で8年ほど地域福祉の非常勤講師をしていた。今は障害者のケアマネジャー。給料で生計を立てている。4年前から豊中市障害者自立支援協議会の会長になり、通学支援の制度を作った。権利擁護部会もこの秋から開く。

 養護学校があり続けたら、差別はなくならないとぼくは思い込んでいる。そもそも分けられている限り、知らない者同士が分かり合えるわけがない。

(「連載・子どもを分ける学校」インタビュー編は、電子版で毎週月・金曜日に無料配信します。教育や共生についての多様な意見を紹介します) 

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