子どもを分ける学校(9、最終回)分けたら理解し合えない 人権教育が源 半世紀の「共に学ぶ」教室
「ともに学び、ともに育つ」を理念として半世紀近く、インクルーシブ教育の実践に努めてきたのは、大阪府北西部の豊中市だ。差別解放を目指す同和教育や在日韓国・朝鮮人、障害者、両性の平等に重きを置いた人権教育が源にあり、誰もが一緒に学ぶ教室を作ってきた。そんな学校にいた人たちは、「分けたら理解し合えない。共生社会から遠のく」と当たり前に考えている。
目の前に「十勝おはぎ」が差し出された。「わざわざ大阪に来て、十勝のおはぎ食べるって、面白いでしょ」。豊中で障害者の自立を支援する上田哲郎さん(47)は取材を始めようとすると、そう言ってにこにこした。
脳性マヒの上田さんは、意思とは関係なく体が動く不随意運動がある。話すのはゆっくりだ。だが脈々とインクルーシブ教育を続けてきた豊中で生まれ育ち、地域の小学校から大学まで多くの仲間と過ごした。現在は、NPO法人CIL(自立生活センター)豊中で主任相談支援専門員として働く。
文部科学省が昨年4月に発した特別支援教育についての通知に対して、「子どもがどんどん分けられている。支援を受けながら通常学級でずっと過ごした自分の人生を否定された気がした」。通知は、全国の小中学校の特別支援学級に在籍する児童・生徒は授業時数の半分以上を同学級で学ぶよう求めている。
上田さんは同8月、国連から通知の撤回勧告を出してもらおうと、スイスのジュネーブにある欧州本部へ直訴しに行った。知人である東洋大学人間科学総合研究所の一木玲子客員研究員に相談すると、意見を述べた「パラレルレポート」を提出すれば3分間の発表ができ、障害者権利委員会に訴えることができると聞いたからだった。
そんな行動派は動画共有サイト「ユーチューブ」で活動を積極的に発信している。旧知の親しい間柄の人が「上田の話は2倍速(で聞くの)がちょうどええ」とちゃかすと、「いやいや1・5倍速がいいと言う人、多いよ」と笑いで切り返す。やんちゃな府立高校へ通った上田さんは「ユーモアがないと生きていけないとどっかで思っている」
上田さんは地域の小学校の校長に「まず身辺自立をさせた方がいい」と入学をいったん断られた。1980年代前半、学校によって受け入れにばらつきがあった。当初スクールバスで1時間かかる養護学校に通ったが、1クラス3人で、同じ豊中の子はいなかった。通った2年間の半分は入院してリハビリに励み、3年時から地域の学校へ転校した。
当時は土曜日午前に授業があった。学校帰りに友達8人と校区内のハンバーガー店チェーン、ロッテリアに集合し、昼食を食べた。「ちょっと大人びた感覚が持てた経験」は養護学校にいたらできなかっただろうと振り返る。
友達は上田さんをよく見ていた。ロッテリアでトレーをうまく運べないと、自然に手伝ってくれた。だが給食後に牛乳の空き瓶40本が入ったかごを運ぶのに、面倒だし、臭くていやだと思い、他の子に頼むと、「お前、それできるやろ」と怒られた。誰もが自然に上田さんを理解していた。
国連を訪ねる前、障害者を取り巻く社会への上田さんの違和感はこうだった。
「子どもの時はこの福祉制度を使って、特別支援学校へ行って、夕方は放課後デイサービス。卒業したら介護施設や作業所で仕事。土日はヘルパーの助けで1日どこかにお出かけ。生活や人生がベルトコンベヤーのように決まる。ほんまにそれでええんか」
取り巻く人たちは「障害がある子のことを本当はよく知らないから、良かれと思ってやっている」と上田さんの目に映る。子どもの頃から分けられているから、関わりがなくなる。「本人がどう思っているか、分からんやろ。そもそも分けられている限り、知らない者同士が分かり合えるわけないやん」
■障害児教育の「理念は変えない」 基本方針明文化で揺るがず
豊中市教育委員会は文科省通知後、「基本理念は変えない」との姿勢に立ち、各学校に「(授業の半分以上を特別支援学級で学ぶ)5割という数字ありきで考えず、それぞれの子どもたちに応じた学びの場を再検討しよう」と伝達した。
今春就学した子どもたちの保護者には、半分以上は個別指導になるとの伝え方はしていない。一方で23年度から、市内15校に設置していた通級指導教室を全55校に開設。普通学級に在籍しながら、子どもの状況や保護者の求めに応じて個別の学びが柔軟にできるような体制を整えた。
豊中が「障害児教育基本方針」を策定し、「ともに学び、ともに育つ」の理念を明確に打ち立てたのは、養護学校義務化(1979年)の前の年だった。
当時は養護学校があれど就学免除・猶予とされて、学校に通っていない障害児たちがいた。豊中ははや52年から地域の小学校に障害児学級を設け、そうした子を受け入れていった。73年に重度や重複した障害のある子のための学級を設置したのも全国で先駆的だったという。
同方針の策定に携わった豊中の元小学校教諭、山口正和さん(77)によると、方針確立は同和教育の力に支えられたが、在日教育も障害児教育も両性の平等も全て被差別でつながっており、それに対する教員たちの問題意識からだった。
市の「同和教育基本方針」が出て数年後、障害児教育の問題も書き出すべきだと意見が出て、一つの項目として独立した。根底にあったのは「分けることは差別」との人権意識であり、障害のある子とない子が一緒に学び、生活し、成長することを目指した。
豊中で生まれ育った池山淳一さん(47、仮名)は小学校の同じクラスに知的障害がある友達がいた。別の教室は用意されていたが、授業も学芸会も運動会もずっと一緒にし、違和感など皆無だった。
授業でうるさくすると「ともき(友達の名前)、うるさいぞ」とたしなめた。行事では「皆で考えて、ともきができる役割を先に決めた」。給食当番でおかずを均等に器に盛れないと分かったら、パンを1皿に1個ずつ配膳する役割を任せた。
後にこの級友は転居したが、小学校4校から進学する中学校にも重度の障害がある同級生たちがいた。「子どもだから、からかうのはある。でも殴ったり、いじめは全然なかった。ヤンキーが多い学校で、むしろ『助けてやれよ』という意識が強かった」と池山さんは思い出す。
池山さんの長女も今、豊中の小学2年生だ。同じクラスに重度の知的障害などある子が4人いる。見ていると、「支援員2人が付き、(別の教室に)分けられていない。発表会などはそれぞれの子ができる役割を持ってチームに入っている」
なぜ豊中はこの理念と実践を守ってこられたのか。山口さんは「一部に批判があっても文書化していたのが強かった。さもないと、人が変わればころっと変わっていたかもしれない」と振り返る。
少なくとも山口さんが勤めた学校では、年度末にその年を総括する「紀要」を作成し、翌年度初めに学校運営方針を立てた。人権教育も算数や図工の授業の組み立ても全て含んでおり、障害児教育は他校から異動したばかりの教員を障害児学級の担任にしないなどと定め、文章にしていた。
市の教職員組合には「障害児教育委員」がおり、必ず普通学級の担任が務めた。「障害児を教えるのは障害児学級の担任だと分かれた意識にならないように」(山口さん)考えられた仕組みだった。
市教委児童生徒課の川見ゆか課長補佐は「方針に基づき、障害の有無に関係なく地域の学校へ行く。当たり前が根付いて今に至っている」と話す。豊中では全ての就学前児童に就学通知を送り、地域の学校が受け入れる体制を整備している。
市内の小中学校では、大まかに1クラスに知的や肢体不自由など支援を要する子は2~3人いる。学級担任に加えて、特別支援学級の担任が学習や実技を指導するため教室内にいる。
ある小学校では、電動車いすの児童がタブレット端末で皆と一緒に学習している。トイレは市独自の予算で配した介助員が助け、給食はクラスの友達が配膳している。学校では知的障害がある子は同じ教室におり、同じ学習が難しい場合、特別支援学級の担任が個人に合わせた内容で教える。
学校へ取材に来るメディアは「子どもたちは、ともに学ぶことをどう感じているか」と似た質問をよくするが、川見さんは首をかしげる。「本人も周りの子も、その質問を疑問に思うのではないか。いることが当たり前だから」
■根強い「教え込む」意識 子どもが学び合う教育へ
大阪府下で豊中市のようにインクルーシブ教育を実践する自治体もあれば、文部科学省の方針に沿った特別支援教育を進める所もある。豊中には1980年代から、地域の学校で一緒にいられる環境を選んで、障害児がいる家庭が転入してくる例も少なくない。
佐藤智美さん(50、仮名)は今春、夫の転勤に伴い、豊中に引っ越した。豊中と隣の吹田市に転勤族が多いと聞き、インクルーシブ教育の環境がある豊中を選んだ。小学2年の息子は、自閉スペクトラム症(ASD)と注意欠陥・多動症(ADHD)が併存する発達障害がある。
佐藤さんは9月下旬、保護者や教職員、市民が40年以上集い続ける「『障害』児・者の生活と進路を考える会」に参加していた。教育の在り方や子ども、学校を取り巻く悩みを話し合う。
佐藤さんの息子はどうしても合わない女子がいて、夏の初めごろから困っていた。女子は何か気付くと口に出してしまう。息子はその言葉を忘れず、気にしたが、佐藤さんや担任にはうまく伝えられない。20代の担任は「難しい案件です・・・」とこぼす。解決策が見いだせず、今は当人同士を離しているという。
考える会には、分けない教育を目指す元教員らが入り、悩みに答えている。この日の参加者は20人余り。豊中の元小学校教諭の山口正和さんが助言する。
「担任はその2人ばかり見ているが、学校はクラス。まず2人が好きな友達から担任が話を聞くように頼んだらいい。子どもは互いをよく見ている。2人だけの関係と捉えると絶対に行き詰まる」
市井の人たちが支える豊中のインクルーシブ教育は、海外からも視察が訪れる。
国際協力機構(JICA)による「障害のある子と共に学ぶインクルーシブ教育」の研修で、例年、豊中を含む大阪府の学校が視察先に入る。今年はアジアやアフリカ、中米の過去10年で最多17カ国から教育省庁や学校関係者らが1カ月にわたり参加した。日本の教育について大学教授らの講義を聴いたほか、首都圏や大阪府の小学校、特別支援学校、高校などを視察し、豊中の小学校にも交流授業で訪れた。
一行は大阪市内で9月下旬、障害者を招いて議論する場があった。大阪の元小学校教員で、コーディネーター役を務めた松森俊尚さん(71)は参加者らに、「日本の教育はインクルーシブだろうか」と問いかけた。教員の意識の高さや努力、支援員の手厚さは称賛されたものの、大半は「まだ途上ではないか」との感想を述べた。
セルビアの小学校言語療法士、ミトロビッチさんは教員がよく訓練され、個別指導計画など日本が持つ強みを自国にも取り入れたいと強調。半面、「インクルーシブな環境を作ろうとしつつも、特別に配慮した部屋を作ってラベルを変えているだけ。実際には分けている」と映った。
障害がある子どもの学校から通常学校への円滑な転校や連携を模索してきたフィジー盲学校のガルオコ・アセナカ校長は「日本はリソースがあるのに、まだ(インクルーシブ教育を)達成していない」と厳しい目を向けた。
現役の教員時代から障害がある子と一緒に学ぼうとしてきた松森さんは、参加者から日本の人材や設備・施設、専門的技術などリソースの豊かさが何度も挙げられたことに対して、「リソースがあればできるなら、日本はもうとっくにインクルーシブ教育になっているはず」と問いかけ、語った。
「教員には『教育とは教え込むもの』との考えがこびりついている。学ぶ主体は子どもたちであるとなかなか理解できない。インクルーシブ教育は、教える教育から、『子どもが学ぶ教育』への転換でもある」
国連が採択し、日本も批准している障害者権利条約は「障害がある児童が障害に基づいて無償のかつ義務的な初等教育、中等教育から排除されないこと」「障害者が他の者との平等を基礎として、自己の生活する地域社会で(中略)無償の初等教育、中等教育を享受できること」(第24条教育第2項)と定めている。
国連は昨年9月、日本の障害者団体や日本弁護士連合会が課題や改善点を盛り込んだパラレルレポートや日本政府からの報告書を踏まえ、日本への総括所見を初めて公表した。
国連は勧告の中で、文科省通知や障害児を分離する特別支援教育が続いていることに懸念を示した。松森さんは勧告が子どもを分離するのをやめ、インクルーシブ教育のスタートにできるのではと期待する。
CIL豊中の上田哲郎さん(右)がスイス・ジュネーブにある国連欧州本部へ直訴に行った際に、障害者権利委員会のヨナス・ラスカス副委員長と交わした対話。ユーチューブで発信し、関心を持つ多くの関係者にも経過を伝えた
豊中の上田さんによると、国連障害者委員会のヨナス・ラスカス副委員長はジュネーブでの対話の中で、日本の分離した形の教育に触れながら、16年に神奈川県相模原市の知的障害者施設で起きた入所者19人の殺害事件(26人重軽傷)を「単なる悲劇的な出来事ではなく、一つの兆候ではないか」と言及した。
国連の勧告の後、永岡桂子文科相(当時)は記者会見で「特別支援教育の中止は考えていない。勧告の趣旨を踏まえてインクルーシブ教育の推進に努める」と語った。昨春の通知については、「撤回を求められたのは大変遺憾」と語っている。
(この連載は終了します。10月中旬から「インタビュー編」を電子版で無料配信し、教育や共生についての多様な意見を紹介します)
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