子どもを分ける学校(8)「私、インクルーシブ教育の先生になる」 自閉症の級友に教わった共生
旭川市に住む定時制高校4年生で、自閉症・知的障害がある平田和毅(かずき)さん(18)は小学校では特別支援学級にいたが、中学3年間はずっと皆と同じ普通学級で過ごした。同級生の一人、狩野はなさん(18)は中学で平田さんと一緒にいる時間が増え、深く知り合い、楽しく過ごせた経験から、インクルーシブ教育の先生になりたいと教育系大学へ進学した。
「教員の負担が増える。授業が遅れる。意地悪や悪口、いじめにつながる。一つも当てはまってないです」。教室内に障害のある子がいると心配されそうなことは、狩野さんが見聞きし、体験したこととはまるで違っていた。
親しみを込めて平田さんを「カズ」と呼ぶ。中学1年で同じクラスになった時はまだ、「カズくん」と呼んでいた。皆、そうだった。
初対面は小学校の入学式。教室へ移動すると、担任が一人ずつに「入学おめでとう」と声を掛けていたが、カズには別の先生が応じていた。4年間同じクラスだったが、カズは音楽や体育、図工の授業にいても、国語や算数にはいなかった。
中学1年でまた同じクラスになった。担任が「カズくん」と呼ぶのに、ある姉御肌の女生徒が「なんで『カズくん』なの?同じ仲間なんだから、カズでいいでしょ?」と言うと、はっとした。知らず知らず違うとの意識が皆にあったと気付いた。
同じ教室にいると、誰かがカズと接する時、普段見せない一面や良いところが見えた。旭川市立忠和中学校で3年間、カズの担任教諭を務めた曽我部昌広さん(57)は、「ぶっきらぼうな、不良っぽい男子がカズにすごく親切で優しくて、あいつ本当は優しいんだなと皆が気付いた」と振り返る。
給食で人気の揚げパンが残り、欲しい人はじゃんけんをした。ある男子生徒がカズの様子を見て、「カズも欲しいよね?」と代役を買って出た。曽我部さんは「皆が一緒にいることで、方法を考えるようになった。分けてしまうと、そんなシーンに出合わなくなる」と悟った。
狩野さんはカズと同じクラスだった1、3年時が「本当に楽しかった」。カズは授業中、いったい何をするのかと周りがいぶかしむ動きをし、言葉を発する。時折、おならもした。
「プーは、ごめんなさいよ」と親に言われていたようだった。ある日、音が鳴らないのにカズがごめんなさいと言い、教室が笑いに包まれた。「受けを狙っているように、ちょうどいい間で言葉を発することがよくあった」。どのクラスのムードメーカーよりも受けていた。狩野さんは「笑ったらむしろ切り替えて勉強に集中できて、妨げになると思ったことがない」と言う。
カズが言葉で伝えるのが難しいため、曽我部さんは毎日、母の江津子さん(50)に電話で学校での様子を話した。母親から聞いた話はまた、朝の会などで皆に話した。
狩野さんは、カズのことをたくさん見聞きし、もっと仲良くなりたいと中3で初めて家へ遊びに行った。「カズを見て、ありのままを出していいんだと思った人がいた。個性を尊重すること、認めることはカズが気付かせてくれた」
狩野さんは旭川市内の私立高校に通っていた時、トランスジェンダーの男子生徒と出会った。心は女性で、男性を好きになる。この同級生がサッカー部の試合を見ていて、あの選手が格好いいと言った時、狩野さんは別段奇異な反応を見せなかったという。彼は後日、性自認を打ち明けてきた。「おそらく自然な反応だったのは、カズがいたから」と狩野さん。その同級生とは親友になった。
狩野さんは今、北海道教育大学釧路校で学ぶ。進学の志望理由書や面接の内容は、ほとんどがカズとの時間から生まれた話になった。
「同じ空間にいることで、特性のある子への対応力が自然に身に付き、個性を尊重し合えるクラスや人になる。私は多様性を受け入れ、互いの個性や特性を尊重し合う態度や行動力を伝えられる小学校の先生を目指します」
狩野さんは「英語は苦手で単位を落としそう」と苦笑する。だが教育の授業内容は「説明や教科書よりも、もう経験しているから体で知っていることがたくさんある。めっちゃ頭に入ってくる」
周囲の同級生や先輩も似た経験がある人が多く、個性や特性を認める人たちだ。「釧路の家族だと思っている」。そして帰省の度に、必ずカズの家へ遊びに行く。
■楽しそうだった幼稚園 息子が意思示した
平田和毅さんの両親、永(はるか)さん(49)と江津子さんは、和毅さんが中学へ進学する際、地域の学校の普通学級で学ばせることにこだわった。願いの源は幼稚園の年長時にさかのぼる。
小学校に上がる前、医師や教員、周りの障害児の親たちからは本人のためにも特別支援学校に行かせるべきと言われた。それに反して地域の学校を望んだが、特別支援学級であっても普通学級の子たちと多く触れ合わせてほしいと希望するのが精いっぱいだった。
和毅さんは2歳のころ、自閉症と診断される。早めの療育を勧められ、障害児が通う幼稚園を選んだ。だがある日、江津子さんは自閉症の親の会で「普通の幼稚園もいいよ」と言われ、年長時のみ週2日、一般の幼稚園に通わせた。和毅さんはそれまでは「言葉も訴えもなく、ずっと親の言いなりだった」
障害児の幼稚園では子ども7~8人に先生が2~3人。あいさつや手遊び、先生と1対1の言葉の練習をした。障害が重い子が多く、子ども同士の絡みがほとんどない。皆が一人遊びしていた。
汚物を取り、いやがる食事を食べさせる。「これから生きていくのに必要な訓練。当時の私はありがたいと思っていた」と江津子さん。この園に通う月・火・水曜日、和毅さんは嫌そうな表情をした。
対照的に、一般の幼稚園に行く木・金曜日は進んで身支度した。以前は友達に興味がないのかと思っていたが、「普通に話していて、楽しそうだった」。園長は、子どもは子どもの中でごっちゃに過ごすべきと信じるインクルーシブ派。旭川市内では珍しい園だったと後に知った。
江津子さんは「訓練、訓練の人生か、回りにたくさん理解者を作っていくべきか。カズにとって幸せなのは、間違いなく後者だと思った」。当時は「法律でも何でもない世間の道理にもやもやしていた」と語る。
特別支援学校や学級はあなたの子のためにある。なぜ行かないのか。子どもがかわいそうだ。先生に迷惑がかかる。先輩ママの体験談も数多く聞いた。そんな頃に目にしたのがインクルーシブ教育を研究する一木玲子さん(当時・愛知みずほ大学専任講師、現・東洋大学人間科学総合研究所客員研究員)のインタビュー記事だった。
記事では、イタリアが1970年代に分離を前提とした専門教育を問い直し、インクルーシブ教育へとかじを切ったことが語られていた。日本は、分離された特別支援学校に行くか、支援が乏しい地域の学校に行くか、障害があると強制的な二者択一になっていると指摘していた。
江津子さんは「もやもやの原因は世間の道理であり、それは人権感覚の無さ」だったと気付いた。
だが学校側の壁は厚かった。子どもたちの遊ぶ意欲とそこからの学び。友達から怒られること。それが社会の縮図であり、普通学級が最高の学びの場だと訴えた。教員らと何度も話し合ったが、「40人教室に和毅さんが座っているのはつらい」「勉強の妨げになるかも」と否定的な答えだった。
永さんは、世間の道理を言う人たちは「善意で慈善的。恩恵的な姿勢が前提にある。でも障害があるから選ばせてもらえないなんて、暴力的なこと」と静かに怒りをにじませる。
小学生の和毅さんの脇にぴったり支援員が付くと、子どもたちは和毅さんへ注意を払わなくなった。国語、数学、理科、社会は個別。普通学級の担任との関わりは薄かった。江津子さんが毎日、放課後に迎えに行くと、和毅さんは機嫌が悪く、疲れていた。
夫婦は和毅さんが小学校在学中の2016年、市民団体の「障害児も地域の普通学級へ・道北ネット」を立ち上げた。前後して旭川市教育委員会へインクルーシブ教育推進を要望し続けた。
市教委は中学進学前、和毅さんは特別支援学校へと伝達してきたが、異議を申し立てた。地域で生きていくためには普通のクラスに行かなければと訴えた。根負けした市教委は最終的に、和毅さんが地元の中学校へ通うことを受け入れた。
入学式を控えて、当時の校長は「やってみましょう。何かあったらその都度話しましょう」と言った。行政は前例踏襲の体質が強い。「一番言いにくかった言葉だろう」と永さんは言う。「でも一番欲しかった言葉だった」
■丁寧に教え合うクラスに 学力テストの点数上がった
和毅さんの3枚の写真がある。3年間担任だった曽我部さんが撮ったものだ。撮影日はいずれも各学年が始まる日。クラス全員の顔を撮っていた。並べて見ると、カズの表情は毎年明るさを増していた。
曽我部さんは写真を撮る習慣があった。前任校はいわゆる不良が多く、荒れていた。だがそんな子たちのいい目をした瞬間や部活中の格好いい姿を切り取った。教室内や廊下に貼ると、生徒たちは喜び、クラスが和む。市立忠和中学校でも実践していた。
カズが入学する前、職員会議では反対の声が強かった。ある教員は「曽我部先生が倒れる」と抗議した。両親はモンスターペアレントかもと恐れられていた。不安がないわけではなかったが、曽我部さんは不良と同じではないのかとも思っていた。
「先生が生徒を悪く言うことがあったが、よくよく聞いてみると、生徒にも言い分がある。だから鵜呑みにせず、家族背景を聞き、自分の目で確かめていた。カズのうわさも耳にしていたが、分からないけどやってみようと」
カズは入学式で着席していたが、きょろきょろ、そわそわしていた。当初は目を合わせず、つまらなそうな表情で、目がうつろだった。音楽の授業では、独り教室の後ろで床に座った。初めて目を合わせ、にこにこしたのは、1年時、体育で高飛び1メートルを飛べた時だった。
カズはきちょうめんな性格で学校の準備は必ず前日夜に済ませていた。曽我部さんがクラス全体に説教をして、気まずい空気が流れると、カズは突然、「ダメだぞー」と先生らしく言って、皆を笑わせた。空気を読んだ絶妙の間があった。
給食の余りは皆で分け合うルールだった。余った肉団子を取ったカズを皆がたしなめると、カズは理解して戻した。すっと女子の輪に入り込むカズ。曽我部さんが、転んで右腕をぶつけたと教室で話すと、カズはその日も次の日も「痛いね、痛いね」と右腕をさすってくれた。
クラスは一般に、成績が平準化するように編成する。中学2、3年時の曽我部学級の学力テストの平均点は上がった。「カズができないことが多い分、周りの子が辛抱強く、丁寧に教えた。それが周りにも広がった。分からないのは恥ずかしいという意識が消えた」(曽我部さん)。テスト結果は両年とも3クラス中、トップになった。
中3の頃、曽我部さんもクラスの子たちと一緒にカズの家へ遊びに行った。曽我部さんや母の江津子さんが「本当に上手に遊んでくれたんだね」と言うと、子どもたちは「くれたんじゃない。遊びたいから遊んだだけ」と答えた。カズはただ同級生であり、友達だった。
狩野はなさんは、「曽我部先生は初めて障害がある子の担任を受け持った。最初は戸惑っていたかも。カズを前から知る友達に『どう思う?どうすればいい?』と聞いていた。でも中3の時はもう不安なく、慣れているように見えた」と思い起こす。
カズをよく思っていない先生は「注意して、静かにして」と言っていたという。狩野さんは、曽我部さんが「遠くからカズと私たちを見守って、本当に必要な段階になって初めて手助けしていた。私も先生になったらまねしたい」と弾んだ声で言う。
旭川市でインクルーシブ教育が広がっているわけではない。「やっぱり大変だからと先入観がある。環境整備やお金とか」と曽我部さん。だが担任した学級には3年間、ただカズがいただけで、そんなものは関係なかった。合理的配慮と言うよりも、「目の前にそんな人がいたら、人間として助けるのは当たり前」だった。
カズに付き合う時間は要したが、不良の世話も夜の家庭訪問や警察沙汰があった。「不良も思春期の女子も言葉ではっきり表現しない」。いたずらをし、反抗するが、褒められれば喜んだ。カズと重なった。
卒業を控えて、3年1組の級友たちがつづった文章がある。小学6年と中学3年にクラスメートだった生徒は「小6の時よりもすごい言葉の量を覚えていて」と驚いた。ほとんどの生徒が、障害があってもそれは個性があっただけと見ていた。「楽しい。いてくれてよかった」「カズがいないと、ずっと心が大人になれなかった」と短い言葉だけで語り尽くす友達もいた。
平田和毅さんは、同級生や曽我部さんら多くの人たちの応援を得て、旭川市内の道立高校の定時制へ進学、来春の卒業を控えている。江津子さんによると、体育の授業でバレーボールをすると、和毅さんはボールを一度持ってもいい。上手でない子もこのルールでいい。今は校内にいろんな「和毅ルール」ができている。
(この記事の続編(9)は10月15日までに配信します)
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