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お母さんの脳を解き明かす 室井喜景准教授に聞く 【ちくだい×SDGs(16)】

須貝 拓也

十勝毎日新聞社 編集局メディアコンテンツ部

 -研究テーマを教えてください。
 SDGs(持続可能な開発目標)に関連しジェンダード・イノベーション(性差に着目して研究・開発の技術革新を目指す)という考えが広がりつつあります。従来、生物学研究には雄動物が多く用いられてきました。その理由としてホルモンの変化が雌動物よりも少なく、データのばらつきが少ないことが挙げられます。しかしさまざまな疾患の有病率や薬の効きやすさに違いがあるため、性差に着目した研究の重要性が見直されてきました。さらに女性の場合、ライフステージにより体は大きく変化します。

 そこで女性の周産期に注目し、お母さんの脳に関する研究を進めています。私は獣医師であり人のお医者さんではありません。そこで獣医師の視点から「人間は動物」であるという当たり前の事実を踏まえ、お母さんが持つ動物本来の性質に着目しています。

室井喜景准教授


 -「人間は動物」という考えを詳しく教えてください。
 地球に生命が誕生したのは約38億年前、哺乳類(有胎盤類)が誕生したのが約1億4千万年前とされています。このことから哺乳類は1億年以上の間、妊娠、出産、授乳を伴う今の生殖様式を続けてきたと考えられます。

 一方、人類が現れたのは約20万年前で生命の歴史の上ではごく最近のことだといえます。生物は世代を経るごとに少しずつ変化(進化)していきます。しかし人類が生まれてまだ20万年しか経っていないため、姿かたちは違いますが他の哺乳類との間に多くの共通点が存在します。

 この視点で人間の子育てを考えると理解しやすいと思います。例えば、哺乳類の生殖様式の特徴として母親の負担が大きいことが挙げられます。妊娠、出産、授乳のどれもが母親に大きな負担をかけます。進化の過程で別の生殖様式に変わればよかったのですが、哺乳類はそのようにしていません。この理由として、この生殖様式が子孫を残すために有利に働いてきたことが考えられます。

 一方でこの負担を乗り越えるシステムも哺乳類は獲得してきました。その一つは集団で子育てし負担を分散する方法です。現在も哺乳類の多くは単独で子育てせず、同じ群れに属する他個体が子育てをサポートしています。このように集団で子育てするように哺乳類は進化してきたことを踏まえて人間社会を考えてみます。

 戦後、急速に社会が変化したため周囲からサポートを受けにくくなり、子育て中の家族は孤立しやすくなりました。しかし哺乳類は集団で子育てするように進化してきたため、人間のお母さんの体もそれに対応するようにできています。このギャップが現在の子育ての大変さに繋がる生物学的原因の一つだと考えています。このためお母さんが動物として本来備えている性質を十分踏まえ研究を進める必要があると考えています。

人間をはじめとする哺乳類の赤ちゃんは母親による養育が不可欠だ


 -研究の具体的な内容を教えてください。
 私たちが日常生活でストレスを受けた時、どのように対処するかは大きく2通りに分類できます。一つは受動的対処といい、ストレスが無くなるのをじっと待つ反応です。もう一つは能動的対処といい、積極的にストレスを除去または回避する反応です。

 先に述べた通り、お母さんが子育ての負担に対処する方法として集団で子育てをすることを挙げられますが、一方でお母さん自身が高いストレス対処能力をもっている可能性を考えました。

 はじめに子育て中の母マウスにいくつかのストレスを与え、どのような反応を示すか調べました。その結果、ある程度持続するストレスを与えた場合、子育て期の母マウスは能動的対処を増加する、すなわち生存に不利な状況を積極的に変えようとする性質が高まることがわかりました。さらにこのような反応は雄や未経産雌マウスでみられなかったことから、子育て期の母マウスだけが持つ特別な能力、まさに「母は強し」のメカニズムを備えていると考えています。

子育て中のお母さん白マウス


 次に脳の変化を調べたところ、母マウスだけ前頭前皮質という脳領域で特徴的な変化が起きていました。さらに興味深いことに、ストレスに対する能動的対処は抗うつ薬を処置した時にも増加するのです。そこで前頭前皮質の反応を抗うつ薬を処置した時と比べると、持続的なストレスを受けた母マウスでは同様の反応が起きていることがわかりました。この結果は子育て期の母マウスが脳内に「抗うつ機構」を備えている可能性を示唆しています。

 この結果を踏まえ、脳内のこの仕組みに働きかける薬を処置したところ、母マウスのうつ様症状を改善することができました。そのため、この薬を人のお母さんの産後うつ治療薬として利用できるのではないかと考えており、さらに研究を進めています。

緑色蛍光遺伝子を導入したマウスの脳神経細胞


 -行動の視点から子育てを研究されているそうですね。
 人間が赤ちゃんを世話するとき、抱っこしたり、おむつを替えたりします。一方、母マウスの場合は子に覆いかぶさるような姿勢で授乳したり、子の体を舐めたりします。何気なくやっているこのような行動も、脳の中でコントロールされているのです。

 例えば、出産経験のない雌マウスに生まれて間もない赤ちゃんマウスを提示した場合、無視したり、時には噛みつてけがをさせたりします。しかし母マウスは初産でも出産後、すぐに子育てを始めるのです。

子育て中のお母さん黒マウス


 このことは妊娠・出産の過程で脳の中に子育て行動をコントロールする神経回路ができることを意味しています。そのため、何かの原因でこの神経回路にトラブルが起きると、母マウスは子育てを放棄したり、子を攻撃したりするのです。そこでこの仕組みが分かれば、育児放棄や子への暴力を止める薬を開発できるのではないかと考えました。

 実際に行った研究の一例を紹介させていただきます。母マウスは完全母乳で子を育てるため多くのエネルギーを母乳として子に与えます。そのため消費するエネルギーを食餌から摂取しなければ母マウスはエネルギー不足で死んでしまいます。実際、授乳中の母マウスは非子育て期の3~4倍の餌を食べます。これは1日3食の人間のお母さんが、1日9~12回ほど食事をとる計算になります。

 このことから空腹は母マウスにとって強いストレスになると考えました。まず初めに絶食が母マウスの子育て行動に与える影響を評価しました。その結果、餌を与えず8時間絶食すると母マウスは一切子育てしなくなり、さらに追加で数時間絶食すると子を攻撃するようになりました。

 そこで空腹がストレスとなり、子育てをコントロールする神経回路の働きを抑制していると考えました。その抑制的に働きかける回路を薬で阻害したところ、母マウスは8時間絶食していても子育てをするようになりました。

 このような研究結果を踏まえ、育児放棄や子への暴力も脳でコントロールされており、薬などで制御できるのではないかと考えています。もちろん人の場合、非常に多くの要因が複雑に絡んでいるため、薬単独で解決できるとは思っていません。さまざまな支援と併用できる新しい技術開発を目指して研究を進めています。

-脳のトラブルが産後うつや育児放棄の原因ということでしょうか。
 厳しい生活環境や人間関係など、さまざまな要因が背景にありますが、これらの影響を受けて脳が変化する結果、ひどく気分が落ち込んだり、子育てを投げ出したりする行動が引き起こされると考えられます。

 従来このようなテーマに生物学的なアプローチをすることは難しいことでしたが、脳内にどのような変化が起きると、気分の落ち込みや具体的な行動を引き起こすのかが徐々に明らかになってきました。そのため脳内で起きることが詳細にわかれば、先に挙げたマウスの例のように、うつ症状を改善し、育児放棄をやめさせることができると思います。

-今後の展望をお聞かせください。
 うつ病などの心の病気や行動に問題が現れる場合、いわゆる精神論で語られがちでした。しかし脳のトラブルが原因とわかれば、「脳という臓器の病気」ととらえることができます。

 対人関係に影響しやすいため誤解されがちですが、心臓や肝臓などの病気と同じように脳の中に必ず原因があるのです。世の中の漠然とした事象を、具体的な理解に落とし込むことは、研究者の重要な仕事です。研究活動を通じてその原因を明らかにし、お母さんに関するモヤっとした理解をスッキリさせていきたいと考えています。また得られた知見に基づき、新しい技術開発をさらに進めてまいります。

あてはまる目標


<むろい・よしかげ>
 福岡県出身。帯広畜産大学畜産学部獣医学科卒業。岐阜大学大学院連合獣医学研究科修了、東京大学大学院農学生命科学研究科特任研究員を経て、2009年に帯広畜産大学基礎獣医学研究部門助教に。15年に同大准教授。専門は行動神経科学、薬理学。

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