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ハワイの夕景

グアテマラの楽園、その名も「ハワイ」 あれから20年~再びグアテマラへ(9)

小林 祐己

JICAグアテマラ事務所企画調査員

 「任地はハワイでした」。20年前はどこでボランティアをしていたのかとJICAの関係者に聞かれ、こう答えると目を丸くされた。日本人の多くがハワイと聞いて思い浮かぶのがアメリカのハワイだが、さすがにJICAは米国でボランティア事業は行っていない。このグアテマラにもハワイがあるのだ。かつて自分が暮らした村の名前は「ハワイ村」という。スペイン語の表記も「Hawaii」で、本家・アメリカのハワイと全く同じだ。

 「本家」と書いたのには理由があって、実はこの村は近くにある運河を造成する際に工事に集まった人たちが住み着いたのが始まりで、砂浜にヤシの木が生えるトロピカルな風景を見て「絵はがきのハワイに似ている」と名付けたという。村の誰かに昔聞いた話なのでもしかしたらほら話かもしれないが、とにかくオリジナルなものではなさそうだ。その適当さが何とも言えずにハワイっぽくて(アメリカのハワイの悪口ではない。行ったこともないので…)、面白くて好きだ。

ハワイの海岸。「本家」に似ている?


 この「ハワイに住んでいました」ネタを使っていたのは自分だけではない。うん十年前の高校時代、「私はハワイ生まれです」と生徒をからかう先生がいた。どうみても日本人の外見だけど、もしや日系なのかと思わせて、答えは鳥取県羽合(はわい)町出身という落ちだった。羽合町(今は市当村合併で存在しない)はアメリカのハワイ州と姉妹都市を結んでいた本家公認のハワイだった。ちなみに自分は新聞記者として鳥取で働いたことがあり、羽合町に何度も行っているので、本家を除く二つのハワイを知っていることになる。

 話がそれたが、グアテマラのハワイは鳥取のハワイよりもハワイに似ている(と思う)。えんえんと続く砂浜にヤシの木が生え、気温も高くて南国ムードを味わえる。ヤシの実もマンゴーも木に登れば食べ放題だ。しかし、違いもある。砂浜は白いビーチではなく、火山由来の黒い砂だ。遠浅のサンゴ礁の海ではなく、ズドンと深くて波が荒いので水泳はお勧めしない。ついでにマイナスなことを先に書いておくと、すぐ内陸側がマングローブ林と運河なので、ちょっと海岸から離れるとやたらめったら蚊が多い。

蚊の巣窟、マングローブ林と運河


 「そんなの全然ハワイと似ていないじゃないか」と本家を知る人に怒られそうだが、ハワイ村はとても良いところだ。とにかく時間がゆっくりと流れている。昼間は暑いので多くの村人は日陰のハンモックでゆらゆらしている。自分もたまに職場前の砂浜にあった丸太の見張り塔に上って寝そべりながら太平洋を眺め、「あー、この向こうに日本があるのかぁ」などとぼんやり考えていた。何だか無人島に漂着した人が言いそうなセリフだが、さみしかったわけではない。ただ繰り返す波と沈む夕日を眺めていると、地球の大きさを感じ、遠い日本の喧騒(けんそう)を夢のように感じた。やはりハワイは楽園なのだ。

ヤシの実はいくらでもある!


 そんな懐かしのハワイに、今回久しぶりに訪れた。実は新聞記者時代の8年前にもとんぼ返りで遊びに来ている。その時も驚いたが、今回、村は大きく変わっていた。一番の違いは20年前は砂道だった道路が舗装され、売店が数軒しかなかった村内にホテルやレストラン、薬局などができていたこと。別荘も増え、リゾート地化が進んでいるのだ。デコボコの砂道時代は四輪駆動車でしかたどり着けなかったが、今ではだれもがアクセスできるようになった。船で運河を渡らねば来られなかった首都からも、橋が架かって直接に陸路でつながったことで、観光地化を後押ししたようだ。

別荘のプールはこんな感じ


 それでも人々ののんびりした温かさは変わっていなかった。ホームステイ先のママはもちろん、村の顔見知りの人たちも「ユーキー(私の名前)」と笑顔で迎えてくれた。うれしかったのはある家で話をしていたら、20代と思える若者がこちらをちらちら見ている。「自分は昔この村で暮らしていたんだよ」と話しかけると、少し恥ずかしそうに「知ってるよ、学校に来てたよね。僕はまだちっちゃな子どもだったけど」と言う。当時、村の学校で子どもたちにウミガメやマングローブ林の保護の話をしたり、一緒に海岸でごみ拾いをしたりした。あの元気で人懐っこい子たちがこんな立派な大人にと思うと感激した。そしてやっぱり20年って長い年月なんだと実感した。

20年前の授業の写真。この子たちが…


 懐かしい出会いもあった。ハワイより先の村々には当時、砂道を1〜2時間かけて歩いて行っていた。村々にはカゴやハンモックづくりの達人がいて、特産品化を目指して講習会を開いたりした。その中に貝殻や木の実で装飾品を作るのが得意な若い女性がいた。女性の村は当初は電気もなく、生活は厳しかったが、大人も子どももいつも喜んで迎えてくれるので大好きな場所だった。その時教えてもらって作ったブレスレットは今も日本に持っている。今回、ハワイから少し離れた砂浜にできたプール付きの豪華ホテルに立ち寄ってコーヒーを飲んでいると、何とその女性が働いていた。

女性が働いていた浜辺の新しいホテル「マヤ・ハデ」


 向こうも覚えていてくれて再会を喜び合った。「いつからホテルに?」と聞くと、オープンした数年前から勤めていて、小さかった子どもたちも成人して近くにできたエビの養殖場などで働いているという。その話を聞いて、20年前に初めてハワイに来た時の不思議な感覚を思い出した。この辺りは砂地で農業は難しく、港もないので漁業専業者も多くない。運河に魚やカニがいるときは漁に出て、ふだんは木を切ったり、建設作業に行ったり、別荘の管理をしたりして暮らす人が多かった。定職を持つ人が少なかったのだ。日本で「市役所勤め」「○○会社課長」などと肩書きと共に人と付き合うのに慣れていた頭には、ちょっとしたカルチャーショックを感じた。

 それは悪い意味でなく、心地よい感覚だった。職業や地位の先入観なしに、その人自身をじかに知ることができる気がしたのだ。しかし一方で、それは現金収入が少ないこと、経済的に貧しいことを意味していた。ウミガメの卵を市場に売り、マングローブ林を伐採する村人にいくら自然保護を訴えても、まずは生活しなければいけない現実があった。今回久しぶりに訪れて、観光という産業が育ちつつあるハワイの現状を見て、これからの村がどのように変わり、自然とどう共生していくのか改めて見ていきたいと感じた。

昔は電気もなかった運河河口の村


 真新しいホテルのTシャツを着た女性は、今は家族みんな幸せだと笑顔で話した。「あの時の井戸はまだいい水が出ているよ」。塩水の井戸が多い村に、日本大使館の援助で掘った真水の井戸がまだ現役だといううれしいニュースも教えてくれた。この20年で彼女の生活は大きく変わったようだった。そういえばと思い、聞いてみた。「手工芸品はまだ作ってるの?」。彼女がうれしそうに差し出した手首には、かわいい丸い木の実のブレスレットがあった。

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