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家族との別れに涙 2週間の隔離生活へ 南極先生 再び極地へ。(8)

柴田 和宏

南極観測隊員(元小学校教諭)

 10月19日。5カ月間の訓練を終えた私は福岡を引き払い、北海道へ戻りました。北九州市の新門司港から大阪の泉大津港へのフェリー。そして、福井県敦賀港から苫小牧東港へのフェリー日本列島を縦断する船旅は、安堵(あんど)感と喜びに満ちたものでした。Go To トラベルキャンペーンの期間中だったため、フェリー乗船の際に地域共通クーポン6000円分も頂きました。窓口の方から「地域共通クーポンは、宿泊日とその翌日までの有効期限となります。北海道到着は翌日20時30分なので、北海道到着後はあまり使う時間がないかもしれません。期限にお気をつけてご利用ください。なお、フェリー内の売店、レストランでも使用可能です」と説明を受けました。敦賀港発は23時55分。すでに深夜であるため、翌朝はどんなぜいたくをしようか楽しみにしつつ、その日は眠りにつきました。

 前日の夜は「ビールを飲みながら朝食を食べるぞ!」と意気込んでいたものの、目覚めると時刻は午前9時。レストランは朝の営業時間を終えていました。私は売店へ行き、お土産を物色。家族へのお土産に買ったのは「白い恋人」を2箱。北海道へのお土産に北海道銘菓を買うのはどうかと思いましたが、家族みんな大好きなので良しとしました。5月に福岡へ向かった時とは異なり、ラウンジには小さなお子さん連れの家族や、夕食を仲間で楽しむ団体客の方などで船内はにぎわっていました。

津軽海峡通過


 フェリーの中での過ごし方は、自室のベッドに横たわりながらのビデオ鑑賞と昼寝。訓練終了間際の2カ月間はほぼ休日がなかったので、ゴロゴロと過ごすことに後ろめたさを感じながらも久しぶりの休息を楽しみました。何よりもぜいたくに感じたのは、海を眺めながら入った露天風呂。やや冷たい海風に吹かれながら温かい湯船につかっていると「あぁ。準備を終えて北海道に帰るんだなぁ」と喜びが湧き上がってきました。夕方に津軽海峡を通過。あと4時間ほどで下船となるアナウンスが流れると、まだ4時間もあるのにそわそわし、荷物を整理し始めました。早く荷物を整理しても必要なものを結局バッグから取り出すことになって元の木阿弥。「何やってるんだろう」と自分が無駄なことをしていると分かりつつも、はやる気持ちを抑えることができませんでした。10月21日午後8時30分。船は予定通りに苫小牧東港に入港。5か月間に及ぶ福岡への私の旅は終わり、出発までの2週間の短い休暇が始まりました

あいさつ回りの風景


 北海道での日々は家族5人で過ごしました。大学に通っている長女が戻ってきてくれたからです。とはいえ、私と大学生の長女を除き、妻と次女、三女は通常通り。土日以外は毎朝学校や職場へ出掛けて行きました。次女は家から離れた高校に通学しているため、家に残された私は、前職の勤務先である小学校の同僚に会いに行ったり、お世話になった方へのあいさつ回りをしたり、仲良くさせていただいている水泳の仲間の元へ行ったりと、人に会いに行く日々を過ごしました。以前の職場でお世話になった校長先生の元へ伺った際は、90分近くいろいろとお話をしました。そろそろ失礼しようと思った頃、「柴田さん。すごいよね。自分の夢を追いかけてそれをどんどんかなえていくのだから。帰国したら子どもたちにその経験をぜひ伝えてほしいなぁ。応援してるからね。それから支えてくれる奥さんがすごい。家族にも感謝しなくちゃね」とおっしゃってくださいました。私は「自分の好きなことをさせてもらっていることに感謝です。よくここまで来たなと思いますが、すべて周りの理解と支えがあってのことです」と返事をしました。夕食は妻や娘たちの手料理。肉じゃが、カレーライス、ニラの卵とじ、アスパラと鶏肉の炒め物など、どれも私の好きな料理でした。久しぶりの家庭の味、でもこれからしばらく食べられない味と思うとついつい食べ過ぎてしまい、2週間で体重が3㎏増えました。

 土日は家族全員で外出。娘たちが外出先に選んだのは登別市。苫小牧に住む以前に10年ほど暮らしていた地。特に長女と次女にとっては幼いころの思い出がたくさんあるらしく、昔住んでいたアパートの前を通るだけで大喜び。高校生になった次女が「昔、逆上がりできなかったけど、今ならできそうな気がするからやりたい!」といきなり言い始めました。せっかくなので昔よく遊んだ公園で逆上がりをすることにしました。次女の服装は丈の長いワンピース。そんなかっこうで年頃の娘が公園で逆上がりをするのはどうかと思いましたが、そんなことお構いなしに鉄棒に次女は逆上がりチャレンジを始めました。そこへ長女も三女も参戦。鉄棒に興じる三姉妹を私と妻は車の中から見ていました。私と妻の予想通り、次女の逆上がりは気分だけ。本人はできる気がするだけで、全くできませんでした。すぐに戻ってくるかと思っていたのですが、なかなか戻ってこないので、私も車から降りました。小学校の先生だった頃の血が騒いだのか、次女に逆上がりを教えることに。「頭の上にあるボールを蹴るつもりで」などとアドバイスしたものの、妻が車内から動画を撮影しているのが恥ずかしかったのと、次女が一向にできる気配を見せなかったので早々に指導を終了しました。15分ほど公園での遊びを堪能した娘たちは車に戻り、登別を後にしました。

 北海道での2週間の休暇の後は、2週間の隔離生活が予定されていました。隔離施設は神奈川県横須賀市内。11月6日から開始の予定となっていました。楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、いつの間にか家族のもとを出発する日が迫ってきていました。私が家を出るのは6日(金)の朝8時半ごろ。家族は学校や仕事がある時間帯です。私は「6日は普通の日だから休まなくていいよ」と妻と娘たちに話し、私が家族を見送ってから家を出発することにしました。妻も娘も私が言うまでもなく、そのつもりだったようです。家から新千歳空港までは私の母に送ってもらうことにしました。私の母は長女が運転できることを知っていたので、「お姉ちゃんに送ってもらわないの?」と尋ねてきました。私は「送ったら帰りにさみしくなるからやめておくと言ってた」と伝えました。母は、妻も娘も見送らないことを不思議に思ったようでしたが、それ以上は何も言いませんでした。

新千歳空港へ向かう車窓からの景色


 11月6日。出発の朝が来ました。目覚めた私はすぐに起き上がらずに家の天井を眺めていました。1階からはドライヤーの音。妻や娘たちがあわただしく身支度をしている音があちこちから聞こえてきました。寝室のカーテンを開け、1階に降りていくと娘たちがいつものように「おはよう」とあいさつ。「おはよう」とあいさつを返して1日が始まりました。食卓にはいつものように朝食が並んでいました。妻が作ったスムージーと半分に切られたゆで卵。そしてブドウ。次女のお弁当のおかずの残りです。朝のニュースを見ているうちに時刻は午前7時半。そろそろ家族が出掛ける頃です。まず三女と妻が家を出ました。妻と娘に「行ってらっしゃい」と声を掛けると、「行ってきま~す。気を付けて行ってきてね!」と2人の声。「うん」と返事をして見送りました。三女と妻は車に乗って家を出ていきました。私も妻も三女も、いつもと変わらぬ日常を作り出すことでさみしさを感じないように努めながら、しばしの別れを告げました。意外だったのは長女です。長女は家で私を見送ってくれるものだと思っていたのですが、起きてくるなり「(次女を)高校に送ってくるね」と言ったのです。次女の身支度が終わった8時頃。次女と長女が家を出る時間になりました。次女が「行ってきます。行ってらっしゃい」と言いながら私とハグをしました。私から離れる次女の目は少し赤く、私の中でずっと抑えていたさみしさが一気にこみ上げてきました。長女は車のカギを片手に「パパ行ってらっしゃい!気を付けてね」と家を後にしました。車が出ていくのをリビングの窓から眺めていると、次女が車の中からずっと手を振っていました。離れていく車はひどくゆっくりで、それは長女がまだ運転に慣れていないためなのか、それともあえてゆっくり走っているのか分かりませんでしたが、ぎりぎりまで別れを惜しむために与えられた時間のように感じました。

 家族4人を見送った私は、2階にある荷物を取りに階段を上りました。荷物の上には封筒が載っていました。中には、妻と娘たちからの手紙が1人1通ずつ入っていました。手紙を読むたび、さみしさと涙があふれ出てきました。「どうして南極に行くことを望んだのだろう?」と後悔にも似た思いすら一瞬湧いてきました。神棚の塩、米、お酒、水を新しいものに変え、手を合わせて家族の無事を願いました。8時30分。母が迎えに来ました。母は家の中に私しかいないことに気づき「あれ?お姉ちゃんは?」と尋ねてきました。「高校に送りに行ったよ」と私は答え、家を出発しました。

新千歳空港にて


 新千歳空港に向かう車内では、ハンドルを握る母の愚痴を聞きながら紅葉が進む景色を見ていました。母は私が南極へ行くのを知らないのかと思いたくなるほど、これからのことには一切触れずに話を続けていました。私にとってはその方が楽なので、母の気遣いに感謝しました。新千歳空港に降り「じゃあね。元気でね」と車を降りました。「そうそう。誰も見送りに来てないから、写真撮ってくれる?」と母に頼むと、母は笑いながら旅立つ息子の写真を撮ってくれました。重い荷物を預けて搭乗、そして離陸。飛行機から見える景色は徐々に遠ざかり、これでしばらく見納めになるなと思いながら写真を撮りました。母から送られてきた写真を見るとひどく画像が粗く、自分の携帯電話を渡せばよかったと思いました。でも画像の粗い写真を見るたびに母とのやり取りを思い出すので、これもまたよい記念です。

◇プロフィール
柴田和宏

1974年千葉県生まれ。生まれてすぐに北海道へ来たので自称道産子。
北海道教育大学函館校卒業。元小学校教諭。
57次南極観測隊教員派遣同行者として2017年に南極へ行く。
帰国後は各地で講演を開催してきた。
2020年11月に出発する62次南極観測隊越冬隊員として再び南極へ行くことが決定している。

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