フライト訓練終了 教授と共に安全祈願 南極先生 再び極地へ。(7)
9月末に南極へ持ち込む観測機器や私物を梱包(こんぽう)するため、東京都立川市にある国立極地研究所へと行きました。南極観測船しらせに荷物を積み込んでしまうと、基本的に荷物の追加はできません。南極で忘れ物に気づいても後の祭り。手に入れることは不可能です。荷物の梱包を終えても何か忘れ物をしているようで不安になり、何度も積み荷リストを確認しました。
東京滞在中、何度もスーパーに足を運んでは私物のお菓子やお酒を買い足しました。前回南極に行った際に、無性に「きのこの山」を食べたくなった時期があったことを思い出し、「きのこの山」を何個も買いました。10個買ってホテルに戻ると、まだ足りない気がして不安になり、翌日に10個買い足して・・・と何度も買い物をしました。
10月13日、国立極地研究所の倉庫から南極観測船しらせへ荷物を送り出す日が来ました。3カ月ほどかけて梱包した荷物はあっけないほどあっという間にトラックへと運ばれ、10分ほどでしらせの待つ港へと向かっていきました。運送担当者の手慣れた動きを見ながら、この作業は今までも何年にもわたって繰り返されてきたことや、これから先も繰り返されていくことなのだと、ふと思いました。
翌日、私は熊本にいました。最後のフライト訓練をするためです。最後のフライト訓練は私がコーチにお願いしました。このままの状態で南極へ行くのは不安だったからです。8月の事故以来、私はすっかりスランプに陥っていました。飛行機を飛ばすことが怖くなっていました。他の訓練と準備との兼ね合いでほとんどフライト訓練ができない状態が続く中、飛行機のことがずっと気にかかり、抜けないトゲのように私の心をチクチクと痛めていました。技術的には一定のレベルには達しているので問題は精神面でした。こればかりは自分で乗り越えるしかありません。何とか前向きな気持ちにできるよういろいろと考え「南極で飛ばせる。オーダーメードの機体。一流コーチからのマンツーマン指導。ラジコンファンから見たら最高の環境だよなぁ。ぜいたくだなぁ。これは楽しむしかないでしょう」と考えることにしました。
2日間の訓練は、操縦の基本である上空の旋回訓練から始まりました。コーチが狙っていたのは、私の自信の回復でした。「柴田さん。あんまり考え過ぎなくなったね。機体が安定しているよ。風に対してもすぐに対応できてる。いいね」といつものように褒めてくれました。30分ほど旋回訓練をした後、「じゃあ離陸をやろうか」とコーチが言いました。飛行機のエンジンを始動させ、離陸位置へと飛行機を移動。「柴田さんが行けると思ったら離陸していいからね」とコーチ。「じゃあ行きます」と、エンジンの回転数を上げていきました。飛行機は徐々にスピードを上げながら私から遠ざかっていき、一瞬右側からの風にあおられて体勢を崩しかけましたが、発進から10秒もたたないうちに離陸しました。「ナイステークオフ! 安定してるね!」とコーチは飛行機を見送りながら拍手をしました。翌日も離陸から着陸までのフライト訓練を数回繰り返し、最後のフライト訓練は終わりました。
コーチは「柴田さん。この場所はすごく狭くて離陸と着陸は難しい場所だけなんだけど、ここでできれば大丈夫。南極は広いから! どこでも離着陸の場所は選び放題!」と笑いながらいいました。機体整備の名人も「いやぁ。正直どうなるかと思ったけど、今回くらい飛ばせたら大丈夫です。よかったです」と言ってくれました。熊本を去る際に「お世話になりました。帰国後、またあいさつに伺います」と、お二人に別れを告げると「また熊本に来てください。一緒にお酒を飲みましょう!」と口元でクイッとおちょこを傾けるしぐさをしながら見送ってくれました。福岡に着いた夜、コーチからLINEのメッセージが送られてきました。「柴田さん。南極のミッションきっとうまくいくと思います。あなたが乗り越えられたのは、あなたの粘り勝ちです。諦めずに何度もチャレンジしたからです。がんばってください!」と書かれていました。
10月17日。福岡大学の教授と一緒に佐賀県の鏡山神社へ向かいました。おはらいを受けるためです。南極へ行くパイロットがここでおはらいを受けるのが恒例とのことでした。福岡から鏡山神社までは車で90分ほど。その道すがら「どうして福岡の太宰府天満宮などではなく、鏡山神社でおはらいなんですか?」と私は教授に尋ねました。すると教授は「カイトプレーンの観測を初めて行ったのが、鏡山神社近くの海岸なんです。今から30年くらい前に、カイトプレーンを使った観測を始めました。それ以来この地は私にとってカイトプレーンの聖地なんです」と、ハンドルを握りながら当時の苦労話などをしてくれました。
おはらい後「ちょっと聖地巡礼してみますか」と、教授は初めて観測を行った場所を案内してくれました。カイトプレーンについて熱く語る教授の話を聞きながら私は「この教授のためにも頑張らなくちゃいけないな」と思いました。その夜、教授と二人でお酒を飲みました。私は「よく私を雇いましたね。能力も分からない。どこの馬の骨かも分からない人じゃないですか。私なら雇わないと思います」と教授に言いました。教授はビールを一口飲んでから「正直に言うと私も迷いました。でも、とにかく誰かを南極に送り込まなくちゃという思いだったんです。南観センターからも大丈夫か?と言われたんですよねぇ」と苦笑いしながら言いました。「でしょうね」と私も笑いました。教授は「正直な話をすると、柴田さんがここまでやってくれるとは思っていませんでした。申し訳ない話、私は全然柴田さんをケアできなかったのに、柴田さんはどんどん自分から動いてくれた。とても助かりました」と言ってくれました。とてもうれしく思いましたが、それとともに、まだ自分は何も成し遂げていない、本当の評価は南極でのミッションを終えて決まるものなのだと気を引き締めました。2時間ほど時間を過ごしたのち、私と教授は握手をして別れました。
10月19日の夕方、私は九州を離れました。準備が終わっただけなのにもかかわらず、私は達成感に包まれていました。「こんなに穏やかな気持ちで訓練を終えられるなんて、5月には思ってもいなかったなぁ」と訓練始めたての頃の自分を思い返しながら、日没を迎えた九州の地を見送りました。
◇プロフィール
柴田和宏
1974年千葉県生まれ。生まれてすぐに北海道へ来たので自称道産子。
北海道教育大学函館校卒業。元小学校教諭。
57次南極観測隊教員派遣同行者として2017年に南極へ行く。
帰国後は各地で講演を開催してきた。
2020年11月に出発する62次南極観測隊越冬隊員として再び南極へ行くことが決定している。