盟友ホクショウマサルとの歓喜、そして別れ ~阿部武臣騎手~
デビュー23年目だった昨シーズン(2020年度)。年間180勝を挙げ、同期の鈴木恵介に12年間、あと一歩のところで阻まれ続けた騎手リーディングの座を阿部はついに射止めた。
勝ち星だけでなく自きゅう舎(坂本東一きゅう舎)の看板馬2頭でもタイトルを量産。世代限定戦ラストイヤーだったメムロボブサップではBG3柏林賞、BG2銀河賞、BG1天馬賞で4歳三冠を制覇し、2018年7月から20年2月にかけて国内公営競馬史上最多となる31連勝を記録したホクショウマサルとのコンビでは、念願のBG1ばんえい記念のタイトルをものにした。
歓喜に沸いた昨年3月21日のレース後の勝利インタビューで阿部は、人目をはばからず男泣きした。乗り鞍(のりくら)が増えなかった若手時代や、ばんえい競馬が存廃問題に揺れたとき「騎手を辞めようと思ったことは何度もあった」という。苦しかったころを振り返ると不屈の男の涙腺は自然と緩んでいた。
まさに“阿部イヤー”だった1年を最高の形で締めくくり、迎えた新年度。気持ちも新たに2年連続リーディング1位を目標に毎週のレースに臨んでいた矢先の6月、今度は阿部に突然の悲しみが襲った。
デビュー以来、ほとんどのレースで手綱を取り、日ごろの稽古でも「他の人を乗せたことがなかった」騎手生活で一番の相棒、ホクショウマサルが病に伏し、そして突然この世を去ってしまったのだ。
「(ホクショウマサルは)牧場から連れて来て、初めてソリをつけたときから関わっていた馬。心の中がぽっかりと空いてしまった」と数日間はふだんの調教にも集中できず、悲しみに暮れる日々を送った。
1日に数回、自身の手で真っ先に飼い葉を与えに行き、毎日の調教でも時を共有した、ある意味では家族以上だった存在の死を簡単には受け入れることができなかった。
ホクショウマサルは3月のばんえい記念を制覇した直後に体調を崩したという。当時、病状や死因についてほとんど報道されていなかったが、阿部によると「人間でいう顔面神経痛のような状態」で、「(馬が)平衡感覚を失い、立っていることもままらなかった」。
高齢馬(当時10歳)ということもあり、早い段階で競走馬としての復帰は難しいと阿部を含めた陣営は判断。「何とかして種牡馬になってほしい」と手術を施し、一旦は症状が回復したかに見えた。コロナ禍のため中止にはなったが6月13日に帯広競馬場内で予定されていた東京五輪の聖火リレーでソリを曳き、ファンの前にお披露目する計画もあったほどだ。
ところが、その後に容態が急変。最期は同馬の復活の代名詞となった「ノド鳴り手術」を施してくれたときと同じ獣医に看取られ、この世を去った。
「できることならばホクショウマサルの子でレースをしてみたかった」と阿部は話す。1200㌔を超える雄大な馬格を誇り、加えて他馬を圧倒する類まれなる脚力。連勝記録の陰に隠れがちだが、3歳時にはイレネー記念、ばんえいダービーという2つのBG1を制覇しているように、繁殖生活の大きな武器となる早い段階から活躍できる血統背景もあり、生きていれば人気種牡馬になっていたに違いないだろう。血を残すことが宿命の競走馬の世界において、そして業界にとっても数十年に1頭のスターホースを失った代償はあまりにも大きかった。
ホクショウマサルの没後、騎手としての阿部の調子は上がらず、夏場まではリーディング中位に甘んじていた。それでも8月にもう1頭の相棒メムロボブサップでBG2ばんえいグランプリのタイトルを獲得すると、悲しみから吹っ切れたかのように猛チャージを開始。堂々と勝利数1位(118勝、1月4日現在)の座に返り咲き、2年連続頂点も視界に入ってきた。
騎手人生で最高の栄誉と悲しみの2つを経験した2021年は阿部にとって生涯忘れられない1年となったはずだ。新たな年を迎えてシーズンは終盤戦に入る。騎手として成長させてくれた最高のパートナーはもうこの世にいないが、阿部は次なるスター候補生らとともにさらなる高みを目指している。
阿部武臣(あべ・たけとみ)1972年7月19日、宮城県大崎市出身の49歳。坂本東一きゅう舎所属。宮城県立小牛田農林高を卒業後、きゅう務員を経て1998年1月に騎手デビュー。通算1809勝(1月4日現在)。BG1タイトルは、ばんえい記念(21年ホクショウマサル)、天馬賞(21年メムロボブサップ)、ばんえいダービー(19年メムロボブサップ、18年アアモンドグンシン、14年ホクショウマサル)、イレネー記念(19年メムロボブサップ、14年ホクショウマサル)。