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大樹町の海岸で巨大津波の痕跡(灰色の地層)を解説する平川教授(2011年)

防災は「アリの目」で わが家のマップづくりを 「500年間隔地震」発見の平川名誉教授インタビュー

小林 祐己

元JICAグアテマラ事務所企画調査員

 十勝での津波堆積物の調査から1990年代に、北海道太平洋岸で繰り返す「500年間隔地震」の存在を突き止めた北海道大学名誉教授の平川一臣さん。現在は愛知県豊橋市に住み、南海トラフ巨大地震の防災対策に研究者の立場で関わる平川さんに、千島海溝沿い巨大地震による津波にどう備えるべきかを聞いた。

平川名誉教授


 ―豊橋市では南海トラフ巨大地震に関してどのような活動をしているのですか。
 南海トラフ地震の対策は国の特別措置法の範囲ですから、予算措置があり、愛知県、各市町村は防災行政としてすべて国の指針に従ってやっています。豊橋市では小学校区単位で勉強会が開かれ、地震の概要と想定の説明、その校区ごとの土地の成り立ちや住まい方などを考えた上での対策を、研究者の立場として解説しています。ただ、それをやっても、結局はそこに来ている人、意識の高い人は良いですが、なかなか広がらない。これではだめだと、二つのことをやりました。

 一つは、自分の足元から作る「わが家の防災マップ」です。豊橋市の防災危機管理課のホームページにあります。これはいきなり空白なんです。自分の家の間取りと家具の配置などを全部書いて、落下や転倒防止をやっているところは○、していないところは×で確認します。小学生も自分の部屋、大人は寝室など、1人ずつ作ります。1軒の家に人数分だけマップがあるんです。

「わが家の防災マップ」の間取り記入例(豊橋市ホームページから)


 その次のページには向こう3軒・両隣を合わせた「ご近所防災マップ」を作ります。小学生は学校までの通学路のマップを、通学グループごとに作る。途中で看板が落ちてくるかも、自動販売機が倒れるかもなど、真っ白い空白から自分で作ります。学校では「私たちの教室防災マップ」「職員室防災マップ」。校長先生は校長室は自分で作ります。校長室は後ろから落ちてくるものがたくさんありますからね。職員室ではパソコンが飛んできてけがするのは先生たちですよ、と呼びかけている。それも職員室として作るのではなくて、1人の先生が1枚作りなさいと話しています。生徒たちにも全員に紙を渡して、自分の席はここ、窓ガラスに近いかどうかなどを考えます。それから町内会、校区でマップを広げていきます。

 行政は防災マップや避難マップを作り、そこに国から予算が下りるが、彼らには上から目線のものしか作れない。防災は下から、ボトムアップでいかなければならない。ハザードマップでも、自分がいるところ、通勤路、通学路をピンポイントで示せないといけない。そこがスタートになる。「鳥の目」じゃだめなんです。大切なのは「アリの目」です。アリの目ができてから、鳥の目で見る。まずは自分の机の周り、わが家の台所から考えることがすごく大事。家で大きな揺れが起きると、台所でお母さんがカレーの鍋をかぶるとか、居間でお父さんにウイスキーの瓶が落ちてくるとかあり得るわけです。逃げる前にまずはそこからです。お母さん、お父さん自身がマップを作ることがとても大事です。


 もう一つ、コロナ禍が落ち着いたら、地区市民館での講座を計画しています。6回連続講座で、そこに参加する人の家をピンポイントで診断します。あなたの家はもともと大きなため池を埋め立てていますねとか、ここの道路はもともとの海岸線の内側ですねとか。一人ひとりでやらないと「自分ごと」にならない。まずは一般論になってしまう。明治の時の地形図と現在を比べて、どう埋め立てて、どう削って土地ができているかを確かめて、その場で自分でマップを作ってもらいます。

 地域で防災を考えるのは、最低でも向こう3軒両隣の範囲が良いです。地区と言っても数十軒レベルまでで、百軒を超えたらダメでしょう。でないと一般論でになってしまう。町から「地域の浸水分布図がこうです」と示されても、「ふーん」「これは大変だ」で終わりです。どれくらい「自分のこと」として考えられるかです。町内会でもトップがよほど熱心で、名指しでおまえの家はどうだという話ができれば違いますが。以前に釧路の大楽毛地区を歩いたら、すごく熱心な区長さんがいた。そういう人がいれば住民に意識が広がる。

 ―十勝でも海岸沿いに浸水が予測されています。どのように対策を考えたら良いですか。
 十勝なら音調津、大津、十勝太とか、その単位でピンポイントに考えなければいけない。自分の家の標高が何メートルで、海岸から何メートル離れていて、避難場所まで何メートルで、どの道を行くかというのは、きちんと把握できている人は案外いない。車で逃げるのは道路が液状化でぐちゃぐちゃになるので無理だと思った方が良い。いざというときにどうするかは、1軒1軒で決めておくしかない。

豊頃町の浸水想定図


 まずは自分の家と地区の標高を確認しておくことが大事です。うちは標高5、6メートルだけど、ほんの数メートル内陸側に行くとゼロメートルというのもある。そういう場所は津波をかぶると池になってしまう。標高分布と今回出た浸水分布を並べてみれば良い。重ねてはダメ、並べる。地形図の上で自分の家がどうなのかを見る。その上で「わが家の防災マップ」です。標高図、浸水図、マップの3本立てです。個人個人でこれを持てば意識が高まる。

 標高分布図で10メートル以下の場所は危ない。特に3~5メートルなどは注意しなければ。例えば3メートル以下となると、釧路湿原などもそうだが、津波がわーっと広がってしまうわけです。海岸の方が標高高い場所もあって、内陸には水がたまってしまう。海岸は全滅ですよ。そこを狙い撃ちで対策をやるしかない。

 ―千島海溝沿い巨大地震の対策は南海トラフ地震に比べて遅れているが、どうするべきと考えますか。
 南海トラフの対策は進んでいる。内閣府からきちんとやっていますから。千島海溝は特措法で予算措置がない。行政というのは予算に応じて対応をしますから。違いはやはり被害額の大きさです。南海トラフはいざ起きたら被害額がすごい。北海道はそういう意味で見捨てられているとも言える。

7月の道防災会議に出席する平川教授(左)


 人ごとの意識になりがちなのは特に行政の人たちです。形式的には考えていても、それはお上から流れてくる情報を流しているだけで、予算の消化だけです。「上から目線」の対策はだめです。自分たちでやるしかない。上から何とかしてくれると思うと大間違い。住民の責任もすごく大きい。行政が何も対応しなかったというのは人任せ過ぎる。自分の命、家は自分で守らないと。自分から始めて、家族、隣近所、それがいくつかできると機能します。それを十勝の人たちにもやってほしい。

 ―平川先生が約20年前に明らかにした「500年間隔地震」が今日の超巨大地震研究の始まりでした。北海道太平洋岸の巨大津波の研究はどのように始まったのですか。
 私の研究テーマは氷河時代の気候環境で、氷河時代の日高山脈、大雪山などが一貫したテーマでした。活断層はやっていましたが、地震の方には関わっていませんでした。1995年に阪神淡路大震災が起きて、活断層をやっていたことから、仲間と数人で日本の活断層マップを作って出版しました。その時に研究仲間の1人が「本当に大きな、日本列島を揺るがすような地殻変動は海溝で起こる超巨大地震だ」と話した。この調査は海底に1万メートル潜らないといけないから不可能で、津波堆積物でやらないと分からないという話になった。当時、津波堆積物の研究はぽつぽつとあったが、東北大の箕浦先生くらいで、ほとんどなきに等しかったです。

大樹町の海岸で巨大津波の痕跡(灰色の地層)を解説する平川教授(2011年)


 研究仲間からその話を聞いた瞬間に、「(津波堆積物は)十勝にあるよ」と言った。北海道の氷河時代の地層を海岸で見ると堆積物がある。1970年に修士論文のために旭浜(大樹町)で行ったフィールドノートの初日に書いてあった。真っ黒い土壌の中に、海岸の石ころがすごくつながりが良く、ぴゅーっと入っている。高さは10メートルでした。この高さまで持ち上げるのは津波しかないと、そうノートに書いてあるんです。火山灰も分かっているから1600年代と年代も分かる。そう書き残してあるけれど、当時は研究対象ではなかった。

 ただちに十勝沿岸で調査を始めて、それを当時日高山脈の記事で知り合った十勝毎日新聞の横田光俊記者がかぎつけて記事にしたんです。それが巨大地震のことが世に出た取っかかりです。学会よりも新聞に出たのが早かった。1998年くらいですね。当時の反応は良くなかったですね。地震学会で話したときに、大先生が「こんなの信じられない」と言いました。石ころを10メートルの高さまで持ち上げるそんな津波は信じられないと。

十勝沿岸を襲った巨大津波について伝えた1998年6月2日付十勝毎日新聞の記事


 調査研究は十勝から釧路までやりました。産業技術総合研究所の人も霧多布でやっていました。十勝の沿岸、釧路の沿岸が世界をリードしていた。生花苗沼、長節、大津、浦幌、音別、釧路まで、3年くらいで調べて、過去6000年間で平均したら400~450年で起きていたと分かった。ボーリング調査だと日にちがかかるが、崖を削ってやるから1日に何本もできる。スコップで全部手作業でした。

 そうこうしているうちに、巨大津波と原発が関わってくるわけです。2003年です。十勝でこんなすごい津波があるということから、国が津波対策を考え始めたわけです。2003年には十勝沖地震があった。それもあって内閣府が慌てたんですよ。原発は海岸にあるから津波を考えなくてはいけないと。内閣府は2003年に国の中央防災会議として500年間隔地震があるというのを認めたんです。翌2004年にはスマトラ島沖地震が起きた。いよいよ日本でも津波対策をしなくてはいけないとなって、2007年ごろまでに一気に進みました。

会見する平川教授(2000年)


 でも2003年より前に、元原子力規制委員会委員長代理の島崎邦彦先生は「ハルマゲドン地震は来るか」というシンポジウムを東大の地震研で開いていた。あのころちゃんと議論しておけば、3・11だって当たり前だろうってなっていたはずなんですよ。まだ10年くらい先ですから。島崎先生は昨年、雑誌科学に10回ほど連載をして、いかに国の津波対策がいい加減だったかというのを検証しています。国がいかに原子力対応のためにそれを潰そうとしたか。対策が(東日本大震災に)間に合わなかったのかというと、完全に間に合っています。本当に真面目に考えていたのかということです。そういう意味で人災です。それを教訓として考えるのであれば、次に北海道に大きな津波が来た時に、(東北の教訓から)学んでいなければいけない。そこが大切なところです。

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