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コロナ禍明け「野球やろうぜ」 居酒屋の後継ぎ 人とつながりたい

高田 英俊

十勝毎日新聞社 編集局整理部

 新型コロナウイルスの感染拡大で飲食業界はかつてない塗炭の苦しみを味わった。だが3年余りの長いトンネルを抜けて、マスクはいらなくなった。たまったエネルギーが弾けるように、帯広市にある居酒屋の後継ぎは「野球やろうぜ」と周囲に声を掛け始めた。もう一度、人とつながり始めるために。

 秋田の郷土料理を提供する「居酒屋秋田」(西2南7)の佐々木健人さん(31)は2月22日、自身のインスタグラムに店の野球チームを十数年ぶりに復活させると投稿した。「皆で楽しく、体を動かしたい方」「いろいろな人と交流を深めたい方」を募った。

 コロナ禍の闇は深かった。2020年春以降、緊急事態宣言や時短営業への協力要請が繰り返され、客足は遠のいた。「一人も来ない日が本当にたくさんあった」。休業せざるを得なかった期間などは農作業のアルバイトに出た。手持ちぶさたになるばかりの時間には、店の備品や内装を補修した。

居酒屋秋田の野球チームのユニホームを着る佐々木健人さん


 「気が紛れることもあり、やってみたかったこともいろいろ手を出した。生産者の苦労や努力を知ったからこそ、家庭菜園も始めてみた。でも不安な気持ちのせいで、手が付かないことが多かった」。

 帯広緑陽高校を卒業後、札幌市の調理師専門学校で学び、同市内のイタリア料理店で約5年働いた。十勝へ戻ってきたのは16年。店の2代目である父の彰博さん(55)が経営する店を母と3人で切り盛りする。その7年間の後ろ半分近くがコロナ禍に重なった。

 健人さんは18年に結婚、翌19年に長女が生まれ、21年3月に長男が誕生した。30代になるのを前にして、周りの同世代の仲間も結婚し、子どもができていった。仕事も家庭も忙しくなってきたところでコロナ禍に突入、外出を自粛させられた。友人らに会う機会は途絶え、どこか空虚さを感じる生活になった。

 だが昨冬、コロナに収束の兆しが見える中で宴会20人の予約の電話が入った。「久しぶりすぎて耳を疑い、聞き直した」と健人さんは笑う。年が明けて2月10日、政府が3月13日からは「マスク着用は個人の判断で」と発表するやいなや、20人、40人、50人規模の宴会予約がどっと入った。飲み語らいたい客の自粛ムードは解けていると感じた。

宴会の準備をした店舗内(インスタグラムより)


■高校野球部ライバルの救い
 なぜ今から野球なのか。

 佐々木家は長男の健人さん、次男の信人さん(29)、寛人さん(26)の3兄弟全員が小学生の頃にスピードスケートと野球を始め、いずれも同じ中学、高校へ進んだ。緑陽高では全道大会出場を目指したが、強豪校とは言えず、健人さん自身も「弟の方がうまいくらい」とベンチ入り止まりだった。それでも部を引退するまでやり抜けたのは仲間がいたからだ。

 野球部員は30~40人。ひたすら走る練習が多かった。監督に叱られやすい部員だったかもしれない。反発して朝練をボイコットし、練習に当面来るなとも言われた。心がきつかった時、同じ守備位置の同級生が「オレだったらとっくに辞めてるぜ」と自分に目を向け、共感してくれていた。やめるなよ、と率直に言われるよりも救われた。

 父の彰博さんは20年以上前、弟(健人さんのおじ)と「居酒屋秋田」の看板で野球チームを立ち上げ、十勝で歴史と人気がある「あさ朝野球」の大会にかつて出場していた。120万円ほどかけてユニホームを作り、用具をそろえて、幕別町の大会で優勝したこともある。だが数年しか続かず、その後休眠状態だった。

居酒屋秋田の店主、佐々木彰博さん。傍らに幕別町の大会の優勝記念品


 健人さんがインスタグラムでチームメンバー募集を投稿してから、集まったのは今のところ三男の寛人さんら6人。野球は未経験の人でも「皆で体動かすのが楽しそうで参加したい」と加わった仲間もいる。

 十勝では、歴史ある「あさ野球」が人気だ。1955年に始まったこの草野球は、チーム数が右肩上がりに増えた。大会参加チームは1981年に352でピークに達したが、今や3分の1以下へと激減した。ただ伝統は脈々と受け継がれている。

 野球経験がある知人、友人はすでに別チームに所属している人が多く、掛け持ちで大会に出ることはできない。だが、十勝のある農協のチームなどいろんな所から「9人そろったらやりましょう」と練習試合の申し込みが相次いでいる。

■店主も客も代替わり
 居酒屋秋田は今よりも景気が良かった1987年に開店している。彰博さんが20歳のころ、その父・勇吉さん(故人)と一緒に始めた。店には勇吉さんの友人、仲間がたくさん来てくれた。「親父がいないとダメだったろうね」と彰博さんは往事を思い返す。

テークアウト用きりたんぽ鍋(インスタグラム)


 だが、店を続けるにつれて、客の幅は彰博さんの知人、友人、そのまた友人や上司、部下へと広がっていく。「時代が移り変わるんだな」と彰博さんが感じたのは30代半ばの頃だった。父のおかげで軌道に乗った店だったが、段々と自身の仲間が客の中心になり、父の周りがさみしげになっていく。

 ちょうどそんな頃の08年、リーマン・ショックによる世界金融危機が起きた。彰博さんは当時を思い起こす。

 「精神的にかなりまいって真っ白な顔をしていた。1年くらい外に出ておらず、お客さんからも相当心配された。来月でもう店閉めるかも、と弟に話していた」

 だが開店当初からつながってきた客が救ってくれた。親子3代で店に通う人は2家族いる。「子どもの頃から連れられて来ていた客が来てくれる。つくねが大好きだった子は大人になってもつくねを食べる」と彰博さんから笑みがこぼれる。「こうやって店も何代も続いていくんだなって」。その後の商いは順調だったが、コロナ禍で蓄えは底をついた。

 健人さんにとっては、札幌の飲食店時代と今は店の業態、規模、運営の仕方が違う。他の飲食店と同様、店に客が来ないならと、テークアウトを始めた。居酒屋秋田はずっと来店客を優先していたが、もともとあった年末のきりたんぽ鍋の持ち帰りに加え、オードブルや弁当も始め、今も続けている。

テークアウト用弁当(インスタグラムより)


■若い時からこそつながれ
 健人さんが十勝へ戻ってきたのは、当時勤めていたイタリア料理店が業態転換でなくなったのがきっかけだった。彰博さんは長男に「いずれ戻ってくるのなら、早めに若い時から人とのつながりを広げた方がいい」とは伝えていた。

 健人さんたち新チームのメンバーは、まだ大会に参加するのは難しい。「居酒屋秋田」の看板を背負って、ゆくゆくは大会に出場するのが希望だが、あさ野球の多くのチームとは異なり、土日の昼間に練習する。そこには「新しい人たちと出会い、家族も一緒に交流を楽しめる場にしたい」との思いがある。

 高校の野球部を引退してから、13年ぶりの本格的な運動になる。健人さんは「コロナがあったからこそ、自分にとって何か新しいことにチャレンジする気になった」と語る。彰博さんは「経費は出さないぜ」と伝えてある。

 「本当に動けるのかどうか、走ってみないと分かんないけど」と笑う健人さん。練習は5月から札内川の河川敷などで始める。さんざん走った高校の野球部時代があるから、「練習はバットとボールを使って、楽しくやりたい」

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