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動物園のあるまちプロジェクト

Vol.6

「ゾウと市民の物語」〈全4回〉

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第4回「上野の森の4頭」


繁殖へ 手を取り合い

 足の裏の掃除をするために足を上げたり、背中を掃くために大きな体を横たえたり-。水浴びもできる広々とした運動場で伸び伸びと暮らすのは雌3頭、雄1頭の計4頭のアジアゾウ。来園者の前で行う体調管理を含めた日々のトレーニングは大人気で、ゾウの頭の良さや飼育係との信頼関係を自然な形で見ることができる。

日々のトレーニングで体の状態を確認。乙津さん(左)の号令で、ほうきを鼻で持ち上げる場面も(上野動物園で)

 今から130年前に日本の動物園で初めてゾウが訪れた上野動物園(東京)。2004年に完成した「ゾウのすむ森」は、土をふんだんに使ったゆったりとした飼育環境が特徴だ。戦時中の殺処分という悲しい歴史を経て、現在は自然に近い環境で幸せに暮らせるよう考え方は変わってきた。目指すはゾウの「繁殖」だ。

 同園で暮らす雄雌のゾウは普段別々に暮らし、雌が発情すると相性を確かめた上で同居を試みる。雌は毎週採血を行い、ホルモン値を測ることで発情周期を把握する。16年には同園で初めて妊娠が確認され、残念ながら流産してしまったが、妊娠成功は大きな一歩としてニュースになった。

「1頭のみ」減少

 ゾウがいない動物園が国内で年々増えている。日本動物園水族館協会によると、アジアゾウは1987年に45園83頭いたが、現在は32園78頭に減少(17年12月末)。アフリカゾウは84年の22園84頭が、17園35頭にまで減っている。

 背景にはワシントン条約などの保護規制や、動物園に移すことに社会的理解が得られにくくなったことが影響する。「多頭飼育」が推奨され、1頭のみ飼育する園は後継を入れないことが多い。

 導入が認められることもある条件の1つが「繁殖」のための研究目的だが、生息地の状況や社会の動きに影響される。上野動物園のゾウ担当飼育係の乙津和歌さん(42)は、「友好親善の記念など国レベルのものでなければ難しい」と導入のハードルの高さを話す。札幌市円山動物園に今秋やって来る4頭も、ミャンマー政府と交渉し、両国の外交樹立60周年記念として特別に合意した結果だ。



 繁殖による「種の保存」は現代の動物園の大きな役割だが、ゾウは繁殖が難しい。飼育下でゾウを増やすためには、本来の生活スタイルである群れを作らせることが重要になるからだ。

 日本ではこれまでにゾウの繁殖はアジア、アフリカゾウ共に10例ずつほどしかなく、うち5、6頭しか成長していない。野生の生息環境を再現できていないことが大きく、性格が荒く、飼いにくい雄も以前はあまり飼育されていなかった。

群れで学べず

 ゾウの妊娠期間は22カ月と哺乳類で最も長く、子育て期を含めると4、5年に1度しか出産できない。「群れの中で子育てを学ぶゾウは、人間に育てられると子育ての仕方が分からなくなってしまうこともある」と乙津さん。野生とは全く違う動物園の環境の中、どう子孫をつなげていくのかは大きな課題になっている。

 そこで国内ではいま各園が手と手を取り合い、新たな命の誕生へ向けた取り組みをしている。

 上野動物園は09年、雌の「アーシャー」を豊橋総合動植物公園(愛知県)に嫁入りさせた。繁殖に向けて、国内で動物を貸し借りする「ブリーディングローン」という取り組みだ。

 成果が実りアーシャーは11年に無事に赤ちゃんを出産。人気者のゾウを移動させることを惜しむ声もあるが、国内のゾウのブリーディングローンをとりまとめる乙津さんは「ゾウは10代での初産が理想。未来のために理解してほしい」と話す。

 130年前に上野にやってきた2頭のゾウに始まり、動物園のシンボルとして各地でゾウを愛してきた日本の人々。ただ、世界でみると象牙を狙った密猟は後を絶たず、個体数の減少は深刻だ。長年帯広で暮らすナナをはじめ、多くのゾウが海外から訪れている。そんな身近な動物園のゾウを大切にするとともに、遠い仲間たちについても考えたい。



第3回「募金で銅像『はな子』」


戦後の苦労 共に歩む

 東京都内のJR中央本線吉祥寺駅前に真新しい銅像が立っている。モデルはアジアゾウの「はな子」。右前足を上げて、鼻を伸ばした愛らしいポーズはあいさつの印だ。駅からほど近い都立動物園「井の頭自然文化園」で、2016年に国内最高齢の69歳で生涯を閉じた、市民のみならず、国民に愛されたゾウだった。

吉祥寺駅前に完成した銅像。たくさんの人々がはな子との“再会”を喜んだ

石投げられたことも

 日本で最も有名なゾウかもしれない。戦後初めて日本にやって来たゾウであり、戦後復興の歴史を人々と共に歩んできた。はな子が有名になった理由のひとつに、その波乱に満ちた生涯がある。

 戦後間もない1949年に「日本の子どもたちにゾウを見せたい」とタイから贈られ、名前は公募で「はな子」に決まった。由来は戦争中に危険だからという理由から餓死させられた恩賜上野動物園(東京)の「花子」から。花子を含む3頭は後に「かわいそうなぞう」という絵本になり、その名前を継いだはな子は戦争の悲惨さを連想させるゾウになった。

 来日当初は上野動物園で暮らしたが、54年に井の頭に移動。それから1頭だけの生活が始まり、相次いだ悲惨な事故が人々の関心を引きつけた。56年に酒に酔ってゾウ舎に忍び込んだ男性を、4年後には飼育係を踏んで死なせてしまった。“殺人ゾウ”のレッテルを貼られて室内で鎖につながれ、殺処分を求める声も上がった。

 はな子は人を信頼できなくなり、食が細り、体も徐々にやせ細った。そんなはな子への“光”になったのは1人の飼育係だった。来園者ははな子に冷たく、石を投げつける中、新しく飼育係となった山川清蔵さん(故人)は鎖を外し、口元に餌を持っていき、優しく語り掛けた。山川さんは傷ついたはな子に寄り添い、信頼関係を少しずつ築き、8年後にようやくはな子の体重は元に戻った。

浄財 目標の1・8倍

 国内で最も長く飼育されたゾウとなったはな子は、70歳にあと一歩届かず、16年5月に69歳で生涯を閉じた。飼育下では50歳で長生きといわれる中、大往生だった。

はな子が長年過ごしたゾウ舎は今もそのまま残されている

 はな子の存在について、昨年度まで同園の広報だった大橋直哉さんは「はな子は戦後の歴史を同じように歩んでいる。苦労した中で一緒に年を重ねてきたと、自分の人生と投影する方もいる」と言う。

 銅像は当初、同園がある武蔵野市の市制施行70周年とはな子の70歳が重なる17年に、市の記念事業として建てられる予定だった。1年前の死に、市や商工会議所などが思い出を残そうと実行委員会を立ち上げ、募金を募った。当初目標1000万円に対し、最終的に1800万円を超える善意が寄せられた。大橋さんも「こんなに集まるとは。はな子が市のシンボルだと少なからず市民も感じていたんですね」とはな子の存在の大きさを実感した。

 はな子は日本の本格的なゾウ飼育の始まりだったが、繁殖や動物福祉が果たせる施設にはなっていなかった。1頭で長く過ごし、コンクリート造りの獣舎で暮らす姿が晩年は問題視されたこともあった。時代は変わり、現在のゾウ飼育は多頭飼い、そして広い飼育スペースが求められ、日本の各動物園もゾウが暮らしやすい環境を整備し始めている。

 吉祥寺駅から徒歩約10分、都会のにぎやかさから離れた同園内のはな子の獣舎は、当時のままに残されている。写真や絵、遊び道具だったタイヤなどが置かれ、来園者が懐かしそうに眺める姿が見られた。

 死んだ当初、5000を超える花束で埋め尽くされた獣舎には、今も花束や手紙が途切れることなく届く。はな子の運動場はサクラの木々が囲み、毎年春には美しいピンク色で彩られるという。

 はな子も見ていただろうサクラを思い浮かべ、何度も修繕したことがうかがえる運動場や獣舎に、生まれ故郷から遠く離れた日本ではな子が歩んだ長い人生を思った。



第2回「映画になった春子」


見えない側 触れる絆

 映画になったゾウがいる。大阪市天王寺動物園のアジアゾウ「春子」。戦後まもない1950年に2歳でタイから訪れた。到着時は待ちわびた約1万人の市民が祝い、一時は周辺の交通がストップするほど。戦後復興のシンボル的存在として市民に愛された。

春子に話し掛けながら餌をやる尾曽さん(2013年、天王寺動物園提供)

 2014年に老衰で死ぬまでの晩年の姿は、ドキュメンタリー映画「天王寺おばあちゃんゾウ春子~最後の夏~」(15年、テレビ大阪制作)として記録され、映画を通じて多くの人が春子の死を悼んだ。そこに映し出されているのは、ゾウと飼育員が長年かけて築いた絆と信頼の物語だ。

チームで時間かけ

 ゾウの飼育方法は3通りある。餌や掃除を同じ空間で行う「直接飼育」、別の場所に移動させる「間接飼育」、おり越しに扱う「準間接飼育」。天王寺が採用する直接飼育は、間近で触れ合うことでゾウの状態が分かりやすく、治療や健康診断もしやすい半面、危険性が高く、全国でも人が襲われる事故が起こっている。

 事故を防ぐ上で大切なのが、ゾウと飼育係の信頼関係だ。飼育係がゾウに信頼されるには年数がかかるため、同園はゾウのみ担当替えを極力しない。5人チームでベテランが新人を指導し、何年もかけて信頼関係を築いていく。

 春子は幼いころから頑固でプライドが高く、周囲に弱みを見せない性格だった。豊富な経験と知恵を持ち、後に来園した雌のユリ子とラニー博子を束ねる“あねご肌”。飼育員との関係も同様で、「見かけだけの親切にはへつらわない。だが心底認めた人には面倒を見る、義理人情のリーダーだった」と04年から飼育係を務めた西村慶太さん(49)は振り返る。

 西村さんは直接飼育を「最初はしんどいやり方だなと思った」と本音を明かす。世界的には動物との接触が少ない間接飼育が主流になる中、春子とは精神的なつながりも求められた。ただ、ゾウは本来は群れで過ごす社会性があり、コミュニケーションを取る動物。野生から切り離された環境では群れの代わりが必要と気付き、「この子たちには精神的なつながり、キャッチボールが必要なんだと感じた」と話す。

 ゾウ担当の最初の1年間は先輩の仕事を見るだけ。ゾウから“お客さん”でなく“飼育係の1人”として認めてもらう必要がある。

鼻水で新人試す

 大切なことは「逃げない」「叱らない」こと。ゾウは鼻水をかけるなどさまざまな手段で新人を試すが、怖がると下に見られてしまう。「“お客さん”から怒られてもゾウは納得せず、関係に摩擦が生じる」と西村さんは言う。

 西村さんの後に担当に加わった尾曽芳之さん(49)は新人当時、初めてグラウンドに入ったときに、春子に鼻でゆっくり押し出されたことがある。先輩の西村さんは入っているのに「おまえは違う」と言うかのようだった。尾曽さんは「『飼育』ではなく『付き合う』。餌をやるとか、かわいがるだけでは信頼関係はできない。誠実に向き合い、時間を重ねること」と春子と過ごした日々をかみしめる。

 春子は年を重ねる中で、白内障で右目の視力を失った。見えない側の体を触るのは熟練のゾウ使いでも危険な行為だが、春子は西村さんら飼育員に触らせてくれた。それは積み重ねた信頼関係があったからこそだった。

 「自分ができていると思ったことも注意されたり、たくさん怒られて気付かされた。恩師です」。西村さんは、約10年間日々を共にした春子に敬意を示す。

 そんな春子も徐々に老い、寝室で足にチェーンを巻く係留など、日々行っていたことができなくなった。14年7月30日に転倒し、西村さんらが懸命に処置を施すも、66歳で天国へ旅立った。

 春子の死後、公開された映画の反響は大きく、多くの市民の涙を誘った。「ふとしたきっかけで映画にもなって…死んでからも知ってもらえるような動物はいない。春子には人をつなぐ不思議な縁がある」と尾曽さんは話す。春子はその死後も天王寺動物園の象徴として、人々の記憶の中に生き続けている。



第1回「元おてんば娘 ナナ」

 動物園のシンボルとして愛されるゾウ。国内では繁殖の難しさや海外からの導入が困難になったことで、姿を消した動物園も少なくない。道内で唯一のゾウとなったおびひろ動物園の「ナナ」や、国内各園の人気者たちの物語を紹介する。


 おびひろ動物園(柚原和敏園長)の動物で一番の古株のアジアゾウ「ナナ」。今年57歳を迎えるおばあちゃんゾウは、半世紀以上を園で過ごし、3世代以上にわたって市民に愛されてきた。

今年で57歳を迎えるナナは国内のアジアゾウでは2番目の長寿に。老後を静かに過ごすためのケアが求められている

 1961年にインドで生まれ、推定3歳で来園した。開園翌年のため専用の獣舎完成が間に合わず、正門に入ってすぐの掘っ立て小屋にロープにつながれ1年間を過ごした。

 当時は体高約120センチの子ゾウでまだ甘えん坊。夜は総合動物舎に入れられたが、「人が恋しくなり抜け出して、夜警さんが追いかけたこともあった」と約45年間飼育係を務めた伊藤眞實(なおみ)さん(72)=帯広在住=は懐かしむ。

 70年ごろまでは来園者をさまざまな芸で楽しませた。ハーモニカを吹いたり、碁盤乗りをしたり-。ひとつの芸は早ければ3日で覚えるほど賢く、来園者と綱引きで勝負したことも。これらの芸はナナの体調を確認する役割もあり、足の裏を見たり、寝転ばせたりすることで異常がないかを確認。こうした取り組みが功を奏したのか、ナナは今までに一度も大病にかからず元気に暮らしている。

 ただ、運動場のふちを歩いていて、堀に落ちたおてんばな一面も。一度学んだことは忘れないという賢いゾウだが、ナナは程なくして再び落ち、おとなしくクレーンで引き上げられたという。

いつ殺されるか

 ゆったりと優しいイメージのナナだが、伊藤さんは飼育を担当した日々を「いつ殺されるのか。どんなに慣れても気は抜いてはいけなかった」と振り返る。

ナナに乗る伊藤さん(1973年)

 担当になった当時、ナナは6歳でやんちゃざかり。信頼関係を築くには力関係を教えることが大切だが、実際の力はナナの方が強い。1時間かけて足に鎖を巻いたが、「足元に座ってやるから、上から踏まれたら終わり」。作業は互いに気が散らないよう常に一対一で行い、「毎日が駆け引きだった」と語る。

 12歳になる73年に妹分の「ノン」が仲間入り。小さくおとなしいノンへの焼きもちはひどく、堀に突き落としてしまったこともあった。そんな不安定な状態が続いたある雨の日、餌を手に、普段と違うカッパ姿で獣舎に入った伊藤さんを体で突き飛ばしてしまった。

 伊藤さんは一瞬意識を失ったが、すぐに背中に乗せるように命令。ナナは申し訳なさそうに応じた。「カッパを脱がないといけないのに焦ってしまった。こっちがいい加減にやると相手もそうなる。ナナからは飼育の根本を習った」。



 帯広の寒い冬を何度も乗り越え、これまで健康で過ごしてきたナナだが、いまやアジアゾウで国内2番目の高齢となり、人間に例えると80歳以上になる。

歯は残り1本

 もともと温暖な地域で暮らすゾウにとって、厳しい寒さは一大事。足の裏が霜焼けになればたらいに消毒液を入れたお湯で浸し、丹念にワセリンを塗った。そんな飼育員の努力はあっても老化は着実に進み、4本あった歯は現在残り1本に。この歯が抜けると堅いものは食べられず、命取りの一因になると懸念されている。

 「余命を全うさせるためのケアを真剣に考える時期に来ている」。伊藤さんは強調する。ゾウは立てなくなると内蔵に負担がかかり死を引き起こす。国内の多くの園が体を起こすクレーンなどを整備しているが、帯広にはなく、老後のケアができる環境にはない。

 いつか必ず来る“最期”に備え、何ができるのか。半世紀以上にわたって来園者を迎え続けた人気者に対していま一度、市民が考えるべきときが訪れている。

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