鹿追百年新聞「豊かさ求めて 社会変化に対応 生活と食を守る」
◆JA鹿追町
1948年「馬そりを走らせ」設立総会に参集… 環境と調和の農業目指す
豊かな暮らしを夢見て、鹿追へ入植した農民を苦しめ続けたのが厳しい自然環境だった。冷害や湿害などで、苛酷な労働の対価が一夜にして失われる年も少なくなかった。加えて、農作物相場の乱高下や好不況の波にもさらされた。
不安定な農民の生活向上のため、1928年に産業組合「鹿追信用購買販売利用組合」が発足。度重なる凶作や相場下落が農民の組合への依存を高め、結果的に「共存同栄・相互扶助」の組合精神をかん養した。
戦後、GHQ(連合国軍総司令部)の指導で農協法が制定され、48年に鹿追村農業協同組合が誕生。鹿追小学校で開かれた設立総会には、「農民が新しいものに対するひそやかな期待に胸をふくらませて、春浅き雪原を馬そりを走らせ、続々と集まってきた」(鹿追町農協50年史より)という。初年度の正組合員は1186人に上った。
貿易自由化など農業を取り巻く情勢が変化を続ける中、同農協は生産者と共に安全な食を安定供給し続けてきた。近年は深刻化する労働力不足に対応し、農作業を請け負うコントラクター事業の充実などに取り組む。こうした協同の力によって、組合員数が設立当初の4分の1近くまで減少する中でも、農産物取扱高は毎年のように過去最高を更新。今後も収益性を高めながら、環境と調和し、ゆとりと潤いのある鹿追型の農業・農村の構築を目指していく。
◆鹿追町商工会
市街地形成・分村から「商い」加速… 戦時受難も経て業者一丸
鹿追の商工業は、1917(大正6)年に下富良野から移住した長渕六三郎夫妻が、現在の玄誓寺(西町3)の近くの掘っ立て小屋で、酒やみそ、燃料、雑貨などを扱ったのが始まりとされる。それ以前、開拓農民たちは帯広や音更、新得まで買い物に出掛けなければならなかった。
同年には新得-鹿追間の道路が開通。音更・帯広から瓜幕方面へ南北に通じる道路との交差点一帯に、十字街が形成された。道路や鉄道の開設に伴って鹿追市街以外にも笹川、瓜幕などに市街地ができ、それぞれの地域で商いが生まれた。その中でも、音更からの分村に伴って、役場庁舎が置かれることになった鹿追市街が急速な発展を遂げた。
昭和初期にはすでに鹿追、瓜幕、東瓜幕に任意制時代の商工会があり、戦時下では商工会が米穀雑貨を扱った。生活必需品のほとんどが配給制となり、商工業者にとっては受難の時代も経験。戦後は一転し、食糧不足の中で町内のでんぷん加工業を中心に大いに潤ったという。
商工会法成立を受け60年11月、134事業所で構成する鹿追町商工会が発足。以後、高度経済成長期以降の過疎化など大きな社会構造の変化に、商工会を中心に商工業者が一丸となって対応し、町の発展に寄与し続けている。
◆自衛隊鹿追駐屯地
災害対応や農家支援 地域の信頼厚く
東西冷戦下における道東防衛の一翼を担うべく、1957年に陸上自衛隊鹿追駐屯地が創立した。以来、地域に密着した活動で住民の信頼を集め、また、当時は舗装道路が一本も無かった町の公共施設整備にも大きく寄与してきた。
同駐屯地は、現在の第5戦車大隊の前身の第5特車大隊が、帯広駐屯地から移駐したのが始まり。その後、各隊の移駐、改廃を経て、現在は同大隊と第5後方支援隊第2整備中隊戦車直接支援小隊、これらを支援する駐屯地業務隊などが駐屯し、約300人の隊員が勤務している。
第5戦車大隊は鹿追、清水、新得、士幌、上士幌の5町を警備隊区とし、各町の暮らしを守ってきた。山林火災、山岳遭難、豪雪など災害対応に加え、人手不足の農家でのビート間引き、早霜害防止のための薫煙作戦、異常発生したバッタの駆除など、「地域活動の成果は枚挙にいとまがない」(町70年史)。
祭りやスポーツ大会の支援などにも積極的で、鹿追の冬の風物詩「しかりべつ湖コタン」で氷雪の建造物を作る上でも、隊員の力は欠かせない存在となっている。
冷戦終結後も日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増し、近年は自然災害の激甚化も著しい。地域と共に歩み続けてきた同駐屯地に対する住民の期待はますます高まっている。