勝毎電子版ジャーナル

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衆議院に繰り上げ当選し、初登院を果たした石川知裕さん(2007年)

石川知裕さんをしのんで~元政策秘書・上垣亜希氏(帯広出身)寄稿

上垣 亜希

石川知裕衆院議員の元政策秘書

永遠の「オヤジ」
 石川知裕さんは、私にとって永遠の「オヤジ」です。人生の師匠であり、頼りになる政治家として、私が政策秘書として仕えてきた国会議員の中で最も大きな存在です。年齢は私がひとつ下ですが、石川さんの包容力、胆力、誠実さ、実行力、責任感は素晴らしく、人生の大先輩という印象を強く持っています。

 帯広市出身の私にとって、故郷十勝のために、ここまで献身的に働いた国会議員はいません。石川さんの秘書として働けたことを私は今でもとても誇りに思っています。心の師匠であり、人生の目標でもあった石川さんともうお話しできないということを、まだ信じられない思いで過ごしています。

 石川さんが2007年3月に繰り上げ当選で衆議院議員になられた時から、2013年5月の議員辞職までの約6年半の間、政策秘書として石川さんと共に十勝のために活動しました。石川知裕さんのことは、十勝出身の秘書の先輩として、私が民主党(当時)の円より子参議院議員の秘書になった1999年当時からうわさを耳にしていました。

 初めてお話をしたのは、当時兵庫県姫路市の市議会議員だった竹内英明君の結婚披露宴でしたね。竹内君は、石川さんの早稲田大学の鵬志会の1年後輩で、私は竹内君が民主党の国対の職員の時に、同い年ということもあって、一緒に仕事することが多かったのです。その時に石川さんが足寄町出身であることなどを伺いましたが、正直10歳以上年上の先輩だと思うほどの貫禄でした。

親分肌で面倒見良く
 私と石川さんの縁をつないでくれた竹内君もその後兵庫県議になり、斎藤元彦知事に関連する諸問題に巻き込まれ、今年1月に逝去されました。

 竹内君のことを自身の経験談も踏まえ、ずっと励ましていた石川さんでしたから、あの時の寂しさや悔しさはとても大きかったと思います。そのため、残された竹内君のご家族のための基金創設や、同じく鵬志会の後輩である竹内君の奥さんが竹内君の名誉を守るための裁判を起こすことを自分のことのように尽力し、基金が設立したこと、刑事告訴が受理されたことなどを聞いて何度も「良かった。良かった」とうなずいていましたね。こうした親分肌で面倒見の良いところが多くの後輩たちに慕われていた理由のひとつです。

 病気が判明してからは、議員会館の地下通路ですれ違う時に、「上垣さん、まだ大丈夫でしょ?」といつも頭を指さしながら笑っていましたよね。私が「必要になったら帽子をプレゼントします!」と伝えていたから、「まだ、いらないよ~」という合図だったんですよね。

 石川さん、本当に突然逝ってしまいましたよね。直前に病院でお話した時も、「大事なお客さんに会うから、すっきりしたんだよ」とひげも髪もそり、「でも、案外まだ大丈夫なんだよ」と頭を指さして笑っていましたよね。そんな冗談を言うくらいだから、まさか、あれが最後になるとは思いもしませんでした。また来週、石川ともひろ事務所OBたちとお見舞いに行く予定について、「楽しみにしてる」って笑って見送ってくれたのになって。さみしいです。

誠実さと気配りと
 石川さんは議員会館の秘書採用条件を(1)経験者(2)女性(3)既婚者(4)子どもがいればなお良し-としていました。地元を重視し、議員会館を一人で切り盛りできる経験者を求め、雑務も多いため女性が良く、誤解を避けるため既婚で子どもがいればさらに安心--そんな理由だったと思います。

 その一つ一つに石川さんらしい誠実さと気配りを感じました。

 秘書として働く間も、二人きりで食事に行くこともなく、検察とマスコミに終われていた時でも、個室ではドアを少し開けて弁護士の到着を待つなどの徹底ぶりでしたね。すべて、自分のスタッフを守るための配慮だったと感謝しております。おかけで週刊誌が秘書との不適切な関係を記事にしようとしても、誰からもそのような話は出ずにボツになったと聞いたこともありました。

 石川知裕という政治家は、いつも「不撓(ふとう)不屈」をモットーに政治活動を行っていました。その言葉通り、どんな困難や逆境にも屈せず、心を曲げずに努力し続けていました。どんな時も人の声に耳を傾け、誰かの悩みを自分の課題として引き受ける人でした。

有言実行、現場主義
 十勝の農業をどう守り、産業につなげ、どう次の世代へつなげるか。国会にいても、頭の中は常に地元十勝の空と大地にありました。隙間時間には、とにかく本を読んでいる姿がありました。懇親会でお酒を飲む時も、常に胸ポケットにメモ帳を入れて、酔って忘れるといけないからと相談内容をメモに取り、必ず翌日に確認をして対応をする「有言実行」の政治家でした。

 それでも、たまにかわいい失敗をすることもありました。メモ帳の字が酩酊(めいてい)状態で書いたのか、自分でも読めないほどひどいものだったことがありました。ただ、どの方からのお話だったかは記憶があったので、私が電話をしてお話を伺って対応したこともありました。

 国土交通委員会と農林水産委員会に所属していた時は、同日に委員会が開かれることが多く、文字通り一人二役で奮闘しました。午前中に国土交通、午後は農林水産で質問と重なる日もあり、目まぐるしい日々を頑張って乗り切りました。質問の前日は準備で深夜にまで及ぶこともありましたが、質問をした日の翌朝には十勝へ飛び、農家の方々や地域の企業を回っていたその姿勢は、まさに「現場主義」そのものでした。

陸山会事件のこと
 そのような忙しい日々を送っていた石川さんにさらに寝る時間もなくなるほどの試練が待ち受けていました。2008年に西松事件で小沢一郎事務所関連の捜査が始まってから、日常がすっかり失われました。

 そして、忘れもしません。2009年3月3日、ひな祭りの日に石川さんの小沢事務所の先輩秘書の大久保隆規さんたちが逮捕され、小沢事務所にも強制捜査が入りました。ひな祭りだったので桜餅などを準備して、ちょっと休憩しようと話題が出た時に石川さんの電話が鳴り、先輩からの呼び出しがありました。「小沢事務所へちょっと顔を出しに行くから桜餅は後でね。」と出掛けた石川さん。石川さんが小沢事務所に入った直後に検察の強制捜査が入り、結局、日付が変わるまで検察から解放されず、事務所に戻れませんでした。

 桜餅はもちろん、翌日の農林水産委員会質疑のための質疑通告もできずという状態でした。初めて、自分のボスと連絡が取れないという事態にとても焦ったことを鮮明に覚えています。議員会館に戻って夜中の1時からレクをするという石川さんにとっても農水省の職員にとっても、とても長い一日でした。

 その日から、マスコミに追われる毎日で、ゆっくりトイレにも行けない日が続きました。2009年には陸山会事件の捜査が始まり、総選挙もあり、目まぐるしい日々が続く中、捜査にも協力するという、検察からもマスコミからも圧力を受けながらも、立派に国会議員として地元十勝のために働いていましたよね。

 そして、理不尽にも逮捕され、議員会館の事務所にも強制捜査。議員会館の職員が、検察の人たちを石川事務所に案内し、ノックもせずに入ってきたあの瞬間を思い出すと、あのような状態でも決して、恨み言や弱音を吐かなかった石川さんの力のない笑顔を思い出します。

 そして、何度も私たち秘書に謝ってくれましたよね。「巻き込んでしまって申し訳ない」と。私たちのことを逮捕された後でもずっと気遣ってくれて、検察が石川さんの携帯を押収したのに、机の裏に忘れてしまうという失態をしても、検察に届けてあげてと検察に配慮するなど、ほんと心のきれいな政治家でした。

 拘置所の中に石川さんがいる間、私たちがどれだけ心細かったか。何かにつけ相談し、決断をあおいでいたので、その存在がいないということがこんなにも喪失感を覚えることかと恐怖の日々でした。弁護士から、石川さんの様子を聞き、毎日10時間以上の取り調べを受けているとのことで、検察に対して猛抗議をしたこともありました。

 私たちは、どんな時でも石川さんの潔白を信じていましたし、実際そうなのですから、国策捜査の流れで理不尽な環境に置かれている石川さんに、仲間のはずの国会議員たちから離党届や辞職願を出せという声が寄せられることが許せませんでした。私に離党届の代筆を指示してくる国会議員に「私は石川知裕の秘書です!石川から指示がない限り代筆なんてしません!」と言い返したりもしてしまいましたね。石川さんが国会に戻ってから、その方たちから生意気な秘書だとお叱りを受けたとか。今では、本当に申し訳なく思っています。

だまし討ちで事情聴取
 そんな私も特捜の事情聴取をだまし討ちで受けることになり、食事も飲み物も出ない状態で11時間も監禁されました。その時、検察官とけんかをしてでも、部屋から出れば良かったのですが、私の中で「石川さんが10時間、11時間と毎日耐えているんだから、私も頑張らないといけない」と奮い立たせました。結果、検察官の怒鳴り声を聞き続けることになってしまいました。もういいだろうと12時間後の午後11時に立ち上がって帰ろうとしたら、ふらふらっと貧血で倒れそうになり、冬の寒い中、コートもなく、お財布もなく、とぼとぼと歩いて議員会館に帰り、石川さんの先輩の南裕史弁護士に自宅まで送ってもらいました。

 翌朝は、身体が硬直して起きられないし、突発性難聴にはなっているし、たった一日、経験した私が、こんなボロボロになるのに、毎日、こんな状態を続けている石川さんは、大丈夫なんだろうかと。そんな状態でも弁護士を通じて、スタッフたちを気遣う石川さんに私たちは何度も勇気づけられました。

 拘置所の中に本を差し入れする時、1日に3冊までと決まっている中、事情聴取の後には笑いでくつろいでもらおうと石川さんの後輩から届いていたキン肉マンの漫画の差し入れをしたら、弁護士さんを通して「上垣さん、漫画はいらないから(笑)。それよりも、経典や聖書を差し入れてほしい」というメッセージに、自分の想像をはるかに超える精神状態に石川さんはいるのだと思い知りました。

 石川さんの生き方、志、優しさは、私にとって永遠の学びあり、励みです。10月21日に初の女性総理が誕生しましたよ。本会議場で首相指名の点呼を聞きながら、石川さんが衆議院議員になって、初めての2007年9月25日の首相指名を思い出しました。

2007年の首班指名
 石川さんの師匠の「小沢一郎」という名前を書くことができるとても貴重な機会でした。どうしても、その日の朝の飛行機で上京しなければならず、綱渡りのようなスケジュールで動いていたのですが、飛行機が遅れた上に、タクシーで国会に向かわないといけない状況で、代議士会も欠席、本会議の開始にも間に合わず、首相指名の点呼が始まってから国会に到着。正面玄関で心臓が締め付けられるような緊迫感の中、石川さんの到着を待っていたことを思い出しました。

 到着後、すぐに荷物を預けて、本会議場へ走り去りましたよね。あんなにも焦った顔をしていた石川さんはあの時くらいだったかもしれませんね。

 議事録にこそ残っていませんが、映像ではありましたよ。議長が「投票漏れはありませんか?」と発した時に、「ありまーす」と大声で答えながら、投票箱のある檀上(だんじょう)へ走った衆議院議員は、石川さんが最初で最後なのではないかと思います。

 本会議が終わって、戻ってきた時に「いやあ、小沢一郎と書けなかったらどうしようかと思ったよ。投票漏れはありませんか?にありまーす、なんて、すごく恥ずかしかった。自分の名前と小沢一郎、反対に書いちゃいそうになって、近くの人に注意されたりさ。木札だけ持って走って壇上に行ったら、投票用紙は?なんて言われて、もう一度席に戻ったりしてさ。いやあ、ほんと、めちゃくちゃ焦ったー」と笑ったあの日がとても懐かしいです。

 ほんと、どんな時でも前向きな言葉だけ、掛けてもらいました。石川知裕さん。あなたの生き方、志、優しさを、私は決して忘れません。どうか安らかにお眠りください。心からご冥福をお祈りいたします。

<うえがき・あき>
 帯広豊成小、帯広第六中(現帯広翔陽中)、スイスのアメリカンスクール、立命館大卒。民間企業を経て、1999年に参院議員だった円より子氏の公設秘書に就任。十勝選出の衆院議員だった石川知裕氏の政策秘書など、国会議員13人の公設秘書を務めてきた。

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